今年のノーベル平和賞に選ばれた日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)は、心身に痛みを抱える被爆者が体験を証言することで核兵器廃絶を訴えてきた。被爆地から離れた高松市では先月、原爆投下で孤児となった被爆者が9年ぶりに体験を語った。
- 16歳で被爆した祖父が言いたかったこと 24歳の記者が出した答え
「急に青空がオレンジ色に変わったんです」
10月29日、高松市藤塚町の研修室で、西尾頼正さん(92)が声を絞り出すと、聴衆らの表情に緊張が走った。かたわらでは西尾さんの長女、国広博子さん(69)が見守った。
高松で暮らす西尾さんが語ったのは、両親と弟、妹2人の家族6人で広島市に暮らしていた太平洋戦争末期の出来事だ。
1945年8月6日午前8時15分、米軍のB29爆撃機が原爆を投下した時、西尾さんは爆心地から2.5キロ離れた段原山崎町の国民学校の校庭にいた。爆風を浴びて倒れ込んだが、コンクリートの壁で熱線が遮られたためか、奇跡的にけが一つしなかった。
顔を上げた時、校舎の屋根は吹き飛び、同級生らは頭から血だらけになっていた。「これは夢ではないのか、生き地獄やないかと感じました」
生涯の心の傷となったのは、その後の経験だ。
命をつないだ家族が相次いで死去
爆心地近くの親戚宅にいた母…