パンツをはいてるか確かめたい。そんなときは「パンティーテックス!」。好き、チ~ン、2人っきりね……。奇抜な持ちギャグで、どんな場面も笑いに変えてしまう芸人の島田珠代さん(54)。実は人見知りで緊張しやすいという吉本新喜劇の顔が、ギャグを封印し、芸への向き合い方や笑いへの思いをまじめに語ってくれました。♪ホンワカパッパー。

吉本新喜劇の島田珠代さん=2024年10月7日午後、大阪市中央区、滝沢美穂子撮影

私は「養殖」、彼女は「天然」

 ――今年、吉本新喜劇が結成65周年を迎えました。珠代さんにとって、新喜劇とは何ですか。

 世界一の劇団です。公演中に「トイレ行きたい、大、大のほう」と小声で言ったら、すぐに5~6人が寄ってきて、舞台袖にはける道をこっそりつくってくれます。それが涙、涙の感動シーンだったとしても。舞台上での連携がすごいんですよ。トイレが終わると、知らん顔で戻ってきます。

 昔、(井上竜夫さんの)「おじゃましまんにゃわ」でこけたときに、フォークが顔に当たって出血したことがあったんです。で、今田(耕司)さんが落ちてたぞうきんで拭いてくれて。お客さんのおばちゃんたちは大爆笑。台詞(せりふ)が数分間止まったとしても、「誰や、誰の出番なんや」と笑いをとる。全てのことを笑いに変えられる劇団なんです。

吉本新喜劇の島田珠代さん(中央)=2024年10月7日午後、大阪市中央区、滝沢美穂子撮影

 ――お笑いの世界に入ったのは高校生のころ。素人参加のテレビ番組への出演から、芸人生活が始まりました。

 小学生のころはおとなしかったんですが、みんなの前で先生が書道をほめてくれたことがきっかけで、人前で話せるようになりました。

 志村けんさんのモノマネで同級生から爆笑をとってから、クラスでの立ち位置が「面白枠」になりました。それからはお笑い一本。常に面白いことを考えていました。

 志村さんのモノマネが(毎日放送のバラエティー番組の)「4時ですよーだ」でもうけ、17歳で吉本興業に入ることに。19歳から「心斎橋筋2丁目劇場」(1999年閉館)に出演し、その後、新喜劇に移りました。

 「笑っていいとも!」にもレギュラーで出ていたんですが、1年足らずで降板に。「黒歴史」として、出ていないふりをしたこともあります。あのころは、自分のかっこ悪いところを認めたくなかったんですよね。

 ――新喜劇の女性の看板役者といえば、珠代さんと同じく山田花子さんも印象が強いです。2人の関係は。

吉本新喜劇の島田珠代さん(左から2人目)=2024年10月7日午後、大阪市中央区、滝沢美穂子撮影

 2丁目劇場のコーナーでも一緒で、花子ちゃんにはかなわないなあと思ってました。怪物がきたなあと。私は「養殖」、向こうは「天然」。天然に勝る笑いってないんですよね。

 花子ちゃんが新喜劇に入ってきたときに、このままじゃダメだと。芝居たるもの「引き算の演技」をしないといけないと学びました。バッとやりすぎても和を乱してしまう。積極的にいくときと、引くときの見極めが大事だなと今も思っています。

もう一人の珠代

 ――お話を聞いていると、芸に対する熱い思いを感じます。今の芸風はどうやって生み出したのですか。

 歴代の三枚目女子って、壁にぶつけられて「痛ーっ」とリアクションするだけでした。今はそういう時代じゃないと思うし、ぶつけられたまま終わるのはおかしい。そこで生まれたのが「優しいのね」のギャグです。追いかけて、詰め寄って、困らせて……。女性が男性を追いかけて、主体的に笑いをとる時代にしたかった。

 もうすっかり確立されましたけど、当時は女性が長時間(3~4分)にわたって笑いをとるのはタブーでした。ある先輩から軽めのハンガーが飛んできたこともあります。「もうしません!」って謝るんですけど、次の日の舞台に出る直前、もう一人の珠代が出てくるんです。

 ――どういうことですか?

吉本新喜劇の島田珠代さん=2024年10月7日午後、大阪市中央区、滝沢美穂子撮影

 聞いてくるんです、もう一人…

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