今の石川県能登町にあたる旧柳田村に温泉が湧いたのは、1972年のことだった。翌年に村営浴場ができ、76年には国民宿舎が開館した。

 「柳田村史」をひもとくと、こんな記述がある。「温泉を基盤として新しい計画が次々と打ち出され、過疎の悩みを返上すべく、着々と各種の事業が進められた」

 82年、その温泉を引いた「柳田温泉病院」が開院した。介護医療院のほか、通所リハビリセンターや認知症グループホームも備え、40年以上にわたって地域の高齢者のよりどころとなってきた。

 だが、2024年1月1日に一変した。

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柳田温泉病院では地割れが起き、配管も破損した=2024年11月19日、石川県能登町、藤谷和広撮影

 2代目理事長の持木大(もちきゆたか)さん(58)は能登半島地震が発生したとき、息子がいる関西から帰る車の中にいた。揺れには気づかなかった。息子からの連絡で地震を知ったが、病院に連絡がついたのは夜になってからだった。

 道路状況もわからず、1日は金沢市内にとどまり、2日朝に出発した。

 当時、病院に34人が入院し、介護医療院には111人が入所していた。

 特に介護医療院は損傷が激しく、水漏れもひどかった。現場の職員の判断で、2~4階の入所者を1階に運んだ。エレベーターもとまっていたため、駆けつけた消防隊や地域住民の力を借り、外階段を使った。約8時間かかったという。

 持木さんが病院にたどり着いたのは、2日午後5時ごろ。入所者は1階の床に布団を敷いて、雑魚寝していた。出勤できていた職員は数えるほどしかいなかった。

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柳田温泉病院では能登半島地震でエレベーターがとまり、外階段を使って入所者を運んだ=2024年11月19日、石川県能登町、藤谷和広撮影

「ベストは何か」 

 まもなく、災害派遣医療チーム(DMAT)の第1陣が到着した。一緒に被害状況を確認した持木さんに、DMATの医師が声をかけた。

 「入所しているみなさんにとってのベストは何か、判断すべきじゃないですか」

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 水は出ないし、職員も足りな…

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