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乳牛165頭を飼育して年間約1千トンの生乳を生産。経営する酪農家民宿〝あだちんち〟の看板を囲む安達永補(えいすけ)さん(右後ろ)と家族=2025年2月11日午前10時54分、北海道標津町川北、松田昌也撮影

 牛乳や乳製品の原料として酪農家が生産している「生乳(せいにゅう)」。その用途はミルクツリーとも呼ばれ、バターやチーズ、ヨーグルトなどの食品にとどまらず、接着剤や繊維、プラスチックの原料まで、枝を伸ばして葉を茂らせる大樹のように広がっている。コロナ禍を機に生乳の消費が落ち込み、円安や国際情勢も加わって輸入飼料やエネルギー価格が高騰。酪農経営は厳しさを増しているが、生産者と消費者、地域社会をつなぐ取り組みを続ける酪農家・安達永補(えいすけ)さん(46)に思いを語ってもらった。

 酪農家に生まれたけれど、ずっと実家を継ぐ気持ちにはなれませんでした。ですが大学4年生だった2000年の夏。雪印乳業(当時)が被害者1万3千人を超す大規模な集団食中毒事件を起こしました。

 「ええっ?」と感じたのは、テレビニュースのインタビューで小学生が「牛乳は工場でできている」と答えているのを聞いた時です。驚いたのと同時に「生産者も、消費者もお互いのことを知って、思いやる気持ちがあれば、乳牛を育てている酪農家もいるんだから、『牛乳が工場から』なんて言葉は出てこない」と思いました。

 その時に初めて「酪農家自身が、食べ物を作っていることを消費者へ伝えないといけない」と就農を決意しました。大学を卒業後、実家へ戻ってすぐに標津町農協の青年部に入り、若手農業者でつくる「標津町4Hクラブ」で町内の小学校、中学校へ酪農の出前授業を始めました。4Hというのは、腕(Hands)を磨き、科学的な思考(Head)を訓練し、誠実で友情に富む心(Heart)を培って、元気で働くための健康(Health)を増進する、という意味です。

 さらに標津町役場が教育旅行の受け入れを始めたので、2005年には酪農家の仲間20人で「標津町グリーンツーリズムフレンズ」を立ち上げ、関東や関西の高校生たちを受け入れ始めました。そこで再び「ええっ?」と違和感をおぼえる出来事があったのです。

嫌いな食材をわざと出す

 たしか関東地方の高校2年の…

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