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漁業者らへの説明会では、後ろに機動隊が並んでいた=1976年6月、写真集「原発のまち 50年のかお―女川から未来を考える」(一葉社)から
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現場へ! 女川「被災原発」の足元で②

 仙台市の東北電力本店で6月26日、株主総会があった。

 株主で市民団体「脱原発東北電力株主の会」代表の篠原弘典(77)は、東日本大震災の東京電力福島第一原発(福島県)の事故で13年経った今も避難している人が大勢いることを踏まえ、東北電に原発撤退を迫った。提案はあっさりと否決された。

 震災では東北電の女川(おながわ)原発(宮城県女川町、石巻市)も被災した。2号機の安全対策工事が5月末に終わったことから、社長の樋口康二郎(66)は「再稼働、安定運転に全力で取り組む」と決意を示した。

 篠原は戦後生まれの「団塊の世代」で塩釜市出身。父は神職で同じ道に進むこともできたが、科学を志して東北大学工学部で原子核工学を学んだ。

 大学に入学した1966年、東海原発(茨城県)で日本初の商業運転が始まった。原子力は「夢のエネルギー」「未来の技術」と語られていた。

 広島と長崎は米軍の原爆で悲惨な目に遭った。その原子力をエネルギーにする平和利用。貢献したいと夢を描く。だが学べば学ぶほど疑問がわく。危険な放射性物質を大量に生みだし、制御も難しい。

 その頃、女川原発が計画され、漁業者が反対していた。大学4年だった70年10月、学生仲間と女川町に反対集会を見に行った。漁師らに話を聞いて考えを改める。「原子力は推進できない」

 電力や原発関連会社などの「…

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