歌人の道浦母都子(もとこ)さん(76)が7年ぶりの歌集「あふれよ」(角川書店)を出版した。同時に刊行したエッセー集「歌人探訪 挽歌(ばんか)の華」(同)とあわせて読むと、平坦(へいたん)ではない半生が浮かび上がる。全共闘運動に身を投じた体験を詠んだ第1歌集「無援の抒情(じょじょう)」から44年。これまでの歩みについて聞いた。
明日あると信じて来たる屋上に
――10冊目となる新刊歌集に収められた〈一冊の日記のような歌集にて振り回されたるわれの一生〉という歌が目にとまりました
「無援の抒情」は自分の気持ちを清算するために作った歌集でした。全共闘運動後、10年経っても心がほどけない。当時に立ち返って、日記のように歌を詠みました。
師事していた「未来短歌会」の近藤芳美先生に歌集を出すよう勧められ、歌に書いたことをまとめたら心の整理がつくかと思ったんです。1980年、雁(がん)書館という小さな出版社から500部。もちろん自費出版です。
――〈明日あると信じて来たる屋上に旗となるまで立ちつくすべし〉〈催涙ガス避けんと秘かに持ち来たるレモンが胸で不意に匂えり〉といった体験に基づく歌が共感を集めました。増刷で10万部を超えたそうですね
全共闘世代の親御さんも手に取り、刑務所で回し読みされたとも聞きました。この歌集で現代歌人協会賞という大きな賞をいただき、あまりにも全共闘歌人、全共闘歌人と言われるようになり、「困ったな、どうしよう」と思いましたね。
――40人の歌人を取り上げたエッセー集「歌人探訪 挽歌の華」には、長崎に生まれ、被爆体験を詠んだ竹山広さんを「『原爆歌人』とは呼びたくない」と書いています
レッテルを貼られて生きるのは、つらいんですよ。例えば私がイヤリングをしていると、「道浦さん、イヤリングつけるんですか」と言われたり。英国のサッチャー元首相や衆院議長を務めた土井たか子さんのようなしっかりした女性をイメージして想像と違うと驚かれたり。
――どんなきっかけで全共闘運動に参加したのですか
67年10月、ベトナム反戦を訴えるデモと機動隊が衝突した「羽田事件」で、京大生の山崎博昭さんが亡くなりました。同年代の人が命を懸けたのだと思ったら、胸が苦しくなって。山崎さんは大手前高校、私は北野高校、ともに大阪で縁の深い府立高校出身でシンパシーを持っていました。早稲田大学で演劇を専攻していましたが、法政大学を拠点に活動を始めました。
――「無援の抒情」には〈「黙秘します」くり返すのみに更けていく部屋に小さく電灯点る〉と、逮捕後、勾留された日々の歌も収められています
〈君のこと想いて過ぎし独房のひと日をわれの青春とする〉と詠んだ相手は高校の先輩で、釈放された時は姉と一緒に迎えに来てくれたんですけどね。理系の研究者だったから「君たちが僕たちの研究をむちゃくちゃにしてしまった」と叱られ、その後も気持ちはすれ違ったままでした。
我が愛を君知らずして今日も過ぎゆく
――〈炎あげ地に舞い落ちる赤旗にわが青春の落日を見る〉という一首は近藤芳美さんの選で朝日歌壇に載りました
69年1月、半年に及んだ東…