解体された建物の横を歩く人=2025年2月17日午後1時27分、石川県珠洲市正院町、樫村伸哉撮影

 「変わらないなあ」と「変わったなあ」。能登半島地震から1年余りが過ぎた被災地を歩くと、二つの思いが交錯する。崩れ落ちた家の横に、解体後の更地が広がる。深い傷痕が消えていく過程だ。

 公費解体が7割近く終わった石川県珠洲市で、自宅の解体作業を見つめる70代の女性がいた。「傷は消えても、地震で家がこんなになった悔しさは消えませんよ」

解体作業を見つめる人=2025年2月17日午後1時47分、石川県珠洲市飯田町、樫村伸哉撮影

 町並みがよみがえり、被災者の日常が戻ってほしいと願う一方で、疑問がある。被災地を将来訪れた人に「災害の記憶」は伝わるだろうかと。

大火砕流の記憶伝える島原半島

 私は昨年末、長崎県の島原半島を取材した。雲仙・普賢岳が1990年に噴火し、降灰と火砕流、土石流が約6年間続いた。ふもとの島原市では1991年6月、大火砕流で43人が犠牲になった。

 長崎に勤務していた時以来、27年ぶりの再訪だった。火山灰が積もった山肌や農地に緑が戻り、新しい道路が何本も走り、当時はなかったファストフードの店舗がにぎわっていた。

 復興したまちには、災害の実相を伝える多くの遺構や遺物があった。

 報道関係者ら20人が大火砕…

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