被爆体験を話す中野隆三さん=2023年6月18日午後6時5分、佐賀県伊万里市、寺島笑花撮影
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■ナガサキノート 中野隆三さん 1930年生まれ

 穏やかで冷静。それでいてユーモアある話しぶりが印象的だった。「またお話を聞かせてください」。そう別れた数週間後、中野隆三(なかのりゅうぞう)さん(94)は脳梗塞(こうそく)を患い、入院してしまった。

 佐賀県伊万里市に住む中野さんと出会ったのは昨夏。中野さんは、1942年に旧伊万里商業学校(現・伊万里実業高校)に入学。長崎市の三菱兵器大橋工場に動員され、45年8月、爆心地から約1.5キロ地点の寮で被爆した。

 中野さんは4月中旬に退院したが、息子の博隆さん(59)によると、以前よりはっきり言葉を話すことができなくなったという。

 語ってくれた記憶を文字に残したい――。博隆さんの協力の下、資料をたどり、取材を進めた。あの日、原爆に遭ったのは長崎の人々だけではなかった。その一人である、中野さんが見た原爆を記録したい。

 中野さんは1930年、大阪市の洋服店に、4人きょうだいの末っ子として生まれた。7歳の時、父が若くして亡くなり、母の実家がある、現在の佐賀県伊万里市へ引っ越した。

 伊万里商に入学後、45年2月から長崎市の三菱兵器大橋工場に動員された。動員先では電気工事の仕事についた。当初は昼の勤務だったが、工員が兵隊となり、昼夜2交代制に。だが、休みの日には友人と浜町まで映画を見に行くこともあったという。

 8月9日は前日が夜勤で、寮にいた。空襲警報が解除され、眠りについて40分後、米軍が投下した原爆は、寮の上空で爆発した。

 突然、頭を殴られているよう…

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