マーシャル・マクルーハン=1966年、AP

Re:Ron連載「小林啓倫のテックのジレンマ」第12回(最終回)

 今年2024年は、ある有名な言葉が生まれてから60周年に当たる、記念すべき年だ。それは「メディアはメッセージ(The medium is the message)」。カナダ出身の英文学者で、後にメディア論の大家としてその名を知られるようになるマーシャル・マクルーハンが、1964年に発表された著書『メディアの理解』の中で章のタイトルとした言葉である。

 マクルーハンは議論を促すために、意図的にあいまいな表現を使うのを好んでいたせいで、この言葉もさまざまな意味に解釈されている。そのため「これがマクルーハンの意図だ」と決めつけることはできないが、私は次のように考えている。

メディアが変わるとメッセージも変化?

 日本語で「メディア」というと「マスメディア」を意味することが多いが、ここでは文字通りの「媒体」、より正確に言えば「情報を運ぶ媒体」を意味している。その場合、ふつうはメディアが運んでいる情報の方がメッセージを伝えるものだが、時にメディア自体がメッセージになることもある。

 お世話になった誰かに、お礼のメッセージを伝えるところを想像してみよう。伝える方法は、対面でお礼を言う、手紙を書く、電話する、電子メールを送る、あるいはLINEやスカイプなどのメッセージアプリを使うなど無数にある。

 いずれも「ありがとう」という情報を伝えることは変わらない。しかしメディアが変わることで、メッセージ自体も変化してはいないだろうか?

 お世話になった程度にもよるが、たとえば自分の窮地を救ってくれた相手に、LINEで一言「ありがとう」と送る、あるいはスタンプ1個で済ませるなどあり得ないだろう。そんなことをしたら、自分はその程度しか感謝していないという「メッセージ」を送ってしまいかねない。逆にそのような効果を期待して、あえてカジュアルなメディアを使う場合も考えられる。

 要するに、メディアはそれが運ぶメッセージを変え得るのだ。まさに「メディアはメッセージ」である。

 そう考えると、メディアは私たちが受け取るメッセージ、すなわち情報を左右する存在ということになる。そこからマクルーハンは、さらに踏み込んだ議論を展開する。私たちがどのようなメディアを使うかによって、社会全体が変わり得るというのだ。

技術が新しい社会をつくり得る

 マクルーハンは「メディア」という言葉を、より広い意味で使っている。それは「われわれ自身を拡張したもの」、より分かりやすく言えば、人間が生み出したあらゆる技術を「メディア」と捉えているのだ。

 確かに技術は、私たちと周囲の世界とのかかわり方を変える。自分の足で道路を歩くのと、そこを自動車で走るのとでは、周囲から得られる情報はまったく異なる。お米を炊くとき、たき火で飯盒炊飯(はんごうすいはん)するのと全自動炊飯器のスイッチを押すのとでは、注意しなければならない情報の種類も量も変わる。その意味では、自動車も炊飯器も「メディア」ということになる。

 その上でマクルーハンは、『メディアの理解』第2版において、こんな解説をしている。

 「メディアはメッセージである」の章は、こう言えばたぶん明快になる。いかなる技術も、徐々に、完全に新しい人間環境を生み出すものであると。

 つまり、マクルーハンは「メディアはメッセージ」という言葉で、メディア=技術が新しい社会をつくり得ると指摘している。そしてこの認識は、これまでもさまざまな形でその正しさが立証されている。最もわかりやすいのが、彼が著書『グーテンベルクの銀河系』の中で挙げている、活版印刷技術の例だろう。

 15世紀半ば、ドイツ人ヨハネス・グーテンベルクが完成させた活版印刷技術は、世の中に大量の情報を拡散させる道を開いた。その結果、16世紀の欧州で宗教改革の動きが起きた際、ルターなど改革を主導する立場の人々がこの技術を巧みに活用することで、民衆の間で支持を広げるのに成功したと言われている。言うなれば、活版印刷技術によって情報流通のあり方が変わり、人々が世の中をどう捉えるかという認識も変化したというわけだ。

 そして私たちはいま、それとまったく同じ状況に直面しようとしている。今回の主役となる技術=メディアは、言うまでもなくAI(人工知能)である。

 AIもまた、人々にさまざま…

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