植松奎二「浮く石―Miracle」

 職業柄、「ぜひお見逃しなく」と何度も口にしてきた。けれど、自分もあの映画やあの舞台を見逃したままいつの間にか終わっていることも多い。あとから気づくのはまだマシか。去年は1200本強の映画が公開されていたらしいから、見逃すことに慣れてしまうどころか、見逃したことにすら気がつかない映画も数多い。普段の生活でも、見逃したことにまだ気がついていない重大なニュースがあるだろうし、見逃してしまった誰か身近な人の心の変化のサインもあっただろう。

 映画監督の三宅唱さんに、「みのがす」という動詞を手がかりに、日常で感じること、撮影を通して考えてきたことを寄稿してもらいました。

 そういうことにえんえんと悩むわけにもいかない。「すべて」を見逃さずにおくことなど物理的に不可能で、適当に見逃し、適当に忘れているから生きていけるとも思う。新聞やテレビが「すべて」なわけもないし、SNSが「すべて」なはずもないし、路上が「すべて」でもない。とは思いつつ、緊急の社会問題が見逃されているように感じて激しい憤りや絶望を感じることもある。その一方で、自分もうっかりメールを見逃してしまい慌てて謝ることもあるし、とりかえしのつかない見逃しに後悔していることもある。せめて自分の目の届く範囲には責任を持ちたいと思うけれど、いやはや、簡単なことではない。子育てをしている家庭ではどこも、成長の瞬間も危ない瞬間も見逃したくないという思いと、でも「全部みるのは無理!」という思いが日々交錯し、すり減り、耐え、何とか調整し続けているのだろう。すごい。

 致命的なことでなければ、見逃していたことに気がつく瞬間は楽しいとも感じる。サッカーの試合をかなり真剣に見ていたはずなのに、あとから識者の解説を聞いて、「自分は何も見えていなかった」と自覚する時は「もう一度見なきゃ」とワクワクする。映画の批評などからもそのようなパワーをもらう。むかし撮った写真や動画を見返すとき、当時は見逃していた新たな発見ができることもまた楽しい。

 映画をつくるとき、現場ではなるべく「すべて」を見逃さずにいたいと心がけてはいる。でも、映画は「すべて」を捉えるものではないとも考えている。むしろ、自分が見たものは「すべてではない」ことを学ぶきっかけになるのが、映画をつくることや、映画を見ることだと信じている。もし映画がなかったら、大袈裟(おおげさ)な言い方かもしれないが、過去も未来もなく「これがすべてだ」と勘違いしたまま生きていたかもしれない。

 映画には必ずフレームがあっ…

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