昨年12月、東京・四ツ谷でのライブで歌う田嶋陽子さん。「愛の讃歌」「リリー・マルレーン」などを軽妙なトークも交えて披露=平賀拓史撮影

着てもらえないマフラーなんて

 《64歳のとき、シャンソンを人前で歌い始めた》

 議員を辞めて長野・軽井沢に引きこもっていたころ、行きつけの酒屋さんから「軽井沢の町おこしをしましょうよ」と誘われて「じゃあ歌でも歌いましょうか」と冗談で応じたのが始まり。たまたま紹介してもらった先生がシャンソンの先生だったというだけで、今では色んな歌を歌っています。

【初回から読む】田嶋陽子さん、母からの抑圧と研究の原点

英文学・女性学研究者の田嶋陽子さんが半生を振り返る連載「わたしが生きたフェミニズム」。全4回の最終回です。

 結局町おこしの話はなくなって、それなら一人でやってやろう、とホテルを予約して半年後にディナーショーを開きました。80人入りの会場に200人も来てくれたのに、歌詞を忘れたり棒立ちになったりさんざん。でも「あれでも良いから続けてほしい」とお客さんに言われ、それからまじめにかかわって19年目です。最初は、トークショーだと思ってた人も多かったみたい。持ち歌は、CM出演でご一緒した小椋佳さんが作ってくれた「揺蕩(たゆた)い」です。

 《現在では東京・四ツ谷のライブハウス「蟻(あり)ん子」で毎月1回ライブを開く。毎回盛況だ》

 職業柄だけど、歌詞が気に入らない歌は歌わない。

 昔の演歌はいつも女が弱々しくて男が良い人になっちゃう。たとえば、「北の宿から」をテレビで批判したことがある。「着てもらえないセーターなんて編むんじゃないよ」って。シャンソンの歌詞も、日本人の心情に合わせて邦訳されると、まったく雰囲気の違う歌になる。「愛の讃歌(さんか)」は、越路吹雪さんが歌っていた有名な日本語版の歌詞は元の詞とは違う。だから「おのぞみならば祖国や友をうらぎりましょう」という、元のフランス語の意味に近い訳で歌います。

 男か女かどっちかが泣いているような色恋の歌は、白々しくって聴いてられない。「リリー・マルレーン」や「死んだ男の残したものは」など、反戦の思いがこもった歌をよく歌います。戦中戦後に家族中で味わったつらさが、やっぱり原点ですね。

そこにあったベニヤ板で「書アート」

 《長野・軽井沢の雪景色を墨で表現したい、と70歳から「書アート」も始めた》

 書道じゃなくて、書のラインアート。書道を習おうとしたら「一という文字を1千回書きなさい」と言われ心が折れました。その後、上手な文字を書くためではなく、自分の発想を生かすために書く書アートに出会った。空海が唐から持ち帰った書体「飛白体」に魅せられ、挑戦しました。ちょうど家に大工さんが入っていて、目に入ったベニヤ板の切れ端を試しに使って書いてみたら、独特のかすれが出て気に入ったんだよね。

 軽井沢に家を構えたのは40代半ば。長年の母へのわだかまりから解放されて自由になった頃です。ここの自然は、留学していた英国や戦時中に身を寄せた新潟に似ている。東京との2拠点生活を続けていますが、仕事の準備は軽井沢、発表は東京というすみ分けは変わりません。

 テレビ収録や講演でボロボロになったあと、いちもくさんに軽井沢に戻ってリフレッシュする。そんな生活がもう30年以上続いています。

 《2023年から、東京の事務所をシニアハウスに移した》

 子どもの頃から家を追い出されそうだったので、自分の家を持つことにこだわってきました。中学生の頃は住みたい家の間取りをよく描いていた。80歳を過ぎて軽井沢でもこれまでで一番住みやすい家を手に入れたけど、老いて動けなくなった時のことがだんだんと頭をよぎるようになったんです。

 シニアハウスといっても、普通のマンションと何ら変わりません。プライバシーは守られるし、食事は自炊でも食堂でもよい。介護病棟もあり、そこに移れば死ぬ前も後も安心して面倒を見てもらえる。ここには以前、母校津田塾大の元学長が住んでいて、お見舞いに訪れたこともあります。住人には92歳でシャンソンを歌っている方もいると聞き、入居を即決しました。

時代が追いついたと言われるけど

 《2019年、主著「愛とい…

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