庵治第二小・中学校の集合写真。児童・生徒のうち数人がハンセン病患者の親と引き離され、楓寮で暮らしていた=1953年ごろ、奥村学さん提供

 高松市の高松港から約8キロ沖合、白砂青松に囲まれた大島には、1909(明治42)年に設立された国立ハンセン病療養所「大島青松(せいしょう)園」がある。島には療養所で働く職員や医療関係者の子どもらが通った庵治第二中学校が、67(昭和42)年に閉校するまであった。

 この中学校の同窓会「島を語ろう会」が今年3月、コロナ禍を経て8年ぶりに高松の料亭であり、70~80代の10人が集まった。

 潮風の香る教室は、いつもにぎやかだった。浮桟橋から海に飛び込み、真っ黒になって泳いだ。そんなセピア色の思い出話が交わされるなか、「しゅうちゃん」と呼ばれる男性のこんな発言に空気が変わった。

 「『保育所の子』が、今日ここにいない理由を考えないといけない」

 後日、大島青松園社会交流会館の学芸員、都谷(つだに)禎子(さちこ)さんに聞くと、「保育所の子」とは、国がハンセン病患者を強制隔離した時代、島内の「楓(かえで)寮」(大島青松園保育所)で暮らした子どものことだとわかった。

 ハンセン病を発症した親と一緒に故郷を追われ、大島に着くと「感染防止」を理由に親と引き離された。

 多くは義務教育を終えるまで楓寮で集団生活をし、その後の消息がわからないという。

国がハンセン病患者を隔離した時代、病を発症した親と引き離された子どもが集団生活を送った寮が瀬戸内海に浮かぶ島にありました。元寮生の一人の人生を通して、ハンセン病問題の現在地を考えました。

 初夏のある日、記者は関西の地下鉄駅前の飲食店で、80代半ばの男性と向き合った。男性は中学の同級生が連絡先を知っていた数少ない「保育所の子」だった。

 「歯を食いしばって働いてき…

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