なにか昆虫の巣穴を思わせる長円形の穴の群れが、ドローンの空撮画像にとらえられていた。穴の径は約10メートル、数は約20キロ四方で数千にも及ぶ。戦車や砲、食糧などの物資を、敵の目から隠すための壕(ごう)の跡だ。
ここはモンゴル南東部の国境地帯。第2次大戦末期の1945年8月、旧満州国へ侵攻したソ連軍の最終集結地点だ。
2023年5月末~6月初頭、一帯を戦後初めて記者が訪れた。
同行した「日蒙学術調査団」(岡崎久弥団長)は、大戦の傷痕ともいえる一帯の軍事遺構を調べ続けている。
ソ連が満州攻略のため建設した巨大基地や軍用鉄道の存在を相次いで明らかにした調査団にとって、ここが最後の「空白域」だった。
大戦末期、満州に駐留する日本の関東軍は南方へ兵力を引き抜かれ、すでに「張り子の虎」となっていた。
それを見透かすかのようにソ連軍の偵察壕は、国境線からわずか数十メートルと、肉眼でも見える位置にまで肉薄していた。
地上には戦車や軍用車両の部品に加え、米国が供与した缶詰などの物資の残骸も見つかった。
なかでも最も目を引いたのは、ナチスの紋章が入った皿やカップだ。
ここにいた部隊が欧州戦線で略奪してきたとみられる。
ソ連の独裁者スターリンは、戦後の国際社会での主導権争いを見込み、対日参戦を急いだ。
そのため欧州戦線の部隊が、対独戦の勝利から息つくひまもなく転戦させられた実態を示す遺留品だ。
東北アジアの近現代史に詳しい岩手大学准教授の麻田雅文さんは「製造年が記されたナチスの陶器が出てきたことで、あの遺構が、第2次大戦末期の1945年のものだと確定できました。東欧の対ドイツ戦線にいた部隊が、実際にあそこに来ていたという重要な物証だと言えます」と指摘する。
皿やカップのほかに、略奪品とみられるベッドも見つかったが、「時間的に迫られ、ベッドのような基本的な物まで持ってきて間に合わせた慌ただしさが、よく表れていると感じました。使える物は何でも使って、とにかく侵攻を強行しようとしたのでしょう」。(永井靖二)