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家族で撮影した写真。右から母の坂野和歌子さん、父の貴宏さん、春香さん、姉の京香さん=貴宏さん提供
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 2020年12月20日、坂野春香さんが18歳で亡くなった。

 11歳のときに脳腫瘍(しゅよう)が見つかって手術。

 17歳で再発し、2度目の手術を受けて闘病生活を続けていた。

 再発がわかったころ、春香さんは父の貴宏さん(53)に、こんなことを頼んできた。

 「私のありのままを全て記録してほしい」

 娘の願いを受け、貴宏さんは日記をつけることにした。

 19年9月から亡くなるまでの約1年3カ月の記録は、今もパソコンの中に残っている。

 最後に更新されたファイルは、亡くなった日の夜に書き上げたもので、こう記されている。

    ◇

 18時37分。春香が永眠いたしました。

 この記録も、ここまでです。

 春香の願いである春香の生きた証(あかし)をここまで書いてきました。

 筆者である私もまだ実感が湧いていません。

 本日、葬儀屋さんと打ち合わせがあり、通夜、葬儀、火葬と続き、最後はお骨になってこの部屋に帰ってくる予定です。

 これを書いている時間、春香はこれまで病気と闘ってきた寝室で、妻と(姉の)京香と最後の夜をともに過ごしています。

 家族4人で行った旅行では当たり前だったこの光景も、これが最後になってしまいました。

 春香は、この文章を読むことができませんが、皆様に読んでもらって、春香を忘れないようにしてもらえたら幸いです。

 春香は、「人の役に立ちたい」と病床の枕元でつぶやいておりました。

 ぜひとも、春香を心の中で思い出してください。

 それが最高の春香の供養になると思います。

 この日記は、春香との約束で、春香の記録をつけることを目的としていますので、私はここで筆を擱(お)くこととします。

「10年生存率は0%」

 小学6年生だった13年10月、春香さんが頭痛を訴えた。

 痛みが治まればケロッとして学校に行ったが、頻繁に繰り返したので病院を受診。

 「自律神経の乱れ」と診断されたが、症状が治まらなかったため、2日後には別の病院へ。

 「片頭痛」と診断された日の夜、激しい頭痛に襲われて嘔吐(おうと)し、「目が見えない」と叫びだした。

 救急車で運ばれた病院でCT検査をすると、左頭頂葉に6センチの腫瘍が見つかった。

 すぐに入院し、取り除く手術を受けることに。

 術後、医師から「スーッときれいに取れました」と言われ、母の和歌子さん(51)は安心した。

 しかし、病理検査の結果は、極めて厳しい内容だった。

 脳腫瘍の中でも悪性度の高い膠芽腫(こうがしゅ)で、10年生存率は「0%」だという。

 2カ月に及ぶ放射線治療と化学療法を終え、自宅での服薬治療に移行。

 頭痛や右手のしびれなどはあったが、中学校では修学旅行にも行き、高校は特進クラスに入った。

 学校生活を送る娘を見て、貴宏さんはこう思っていた。

 「0%は2013年時点の話。医学も進歩しているんだから大丈夫。突破できる」

 しかし6年後、高校3年生の時に医師から再発を告げられた。

覚悟して臨んだ2度目の手術

 2度目の手術は「覚醒下手術」を行うことに。

 頭蓋骨(ずがいこつ)を開けた状態で麻酔から覚まし、言葉をかけながら腫瘍を取るという手術だ。

 手術を受ける前日、春香さんは父母と一緒に医師から説明を受けた。

 脳機能を温存しながらできる限り腫瘍を取り除くが、言語障害や麻痺(まひ)などの後遺症が残る可能性がある。

 本人と家族はどんな機能を優先的に残したいと考えているか、を尋ねられた。

 父と母が「言語機能だけは残して」と伝える中、春香さんはこう言った。

 「私は生きたいので、障害が残っても、腫瘍を全部取ってほしい」

 大好きだった絵が描けなくなるかもしれないし、話せなくなるかもしれない。

 それでも、生きることを選びたい。

 娘の覚悟を感じた貴宏さんは「何があっても支えていこう」と決めた。

 その日の夜、春香さんは自分のスマホにこんなメモを残していた。

    ◇

 パパ、ママ、京香へ

 私という自我が死んでしまっ…

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