ふらっとの事務所で職員の金和永(右)と話す宋悟(左)=2024年5月、大阪市生野区、玉置太郎撮影
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 コロナ禍が始まって半年たった2020年夏、IKUNO・多文化ふらっと(大阪市生野区)の事務局長、宋悟(そんお)(63)に、1本のメールが届いた。

 「Please help me song sang」

 (助けてください、宋さん)

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 送信元はふらっとの教室に通う3人きょうだいの母、フィリピン出身のマリア(42、仮名)だ。

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 近所の喫茶店で会って話を聞くと、コロナ禍で仕事がなくなったという。ひとり親で頼れるコミュニティーがない。日本語の読み書きも難しい。

 宋は団体として生活費を貸し、週末に地元である食材配布会に、子どもらを連れて通った。

3きょうだいの母が頼った先

 マリアの初来日は03年。歌手やダンサー向けの在留資格「興行」で、フィリピン人約8万人が来日した年だ。多くが飲食店で働いていたとみられる。マリアは富山や栃木で働いた。

 しかし興行ビザは、米国が「人身売買の疑い」と批判。日本政府が05年に審査基準を厳しくしたため、発給は激減した。

 マリアは来日できず、母国で働く間に日本人男性と出会って子を授かり、シングルマザーとして育てた。

 再来日は13年。地元では十分に生活できる仕事がなかった。悩んだ末、長女と長男は親族に預け、3歳の次女を連れて岐阜へ渡った。働いて、仲介業者への借金も返済した。

 16年に知人を頼って大阪に。生活が落ち着いた19年、故郷に残す2人を呼び寄せた。

 小中学校への編入手続きを、知人の紹介で出会った宋が支えた。

 印刷工場で働いて生計を立てつつ、「離れて暮らした時間が長いぶん、どうしたらいい母親になれる?」と悩む。

高3になった長女の「夢」とは

 支えになるのが、3人の子が喜んで通う多文化ふらっとの存在だ。

 長女のミカ(17、仮名)は今春、高校3年になった。故郷の祖母の下(もと)から生野へ来たのが中学1年。日本語は「おはよう」しか知らなかった。

 ふらっとの教室で日本語学習…

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