開幕まで半年となった大阪・関西万博。ボランティアのユニホームを監修したのが、コシノジュンコさんだ。1970年大阪万博では三つのパビリオンのユニホームをデザインし、その後の流行に大きな影響を与えたコシノさんに「万博とファッション」について語ってもらった。

【動画】1970年大阪万博のユニホームをデザインしたコシノジュンコさん。制作秘話を語る=佐藤慈子撮影

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――1970年の大阪万博はどんなイベントでしたか。

 異国の文化に触れ、世界と手を取り合って展覧会を作る初めての経験をしました。日本は島国だから、昔から海の向こうに憧れがあったと思いますが、万博でその芽が開いたんです。

 一番なにが憧れだったかというと、建築だったと思うんですよ。各国でも日本でも、建築家がすごく活躍していた時代。万博会場が、その建築家たちの実験というか、遊びの場になったんです。

 来場者は、世界の建築家が設計したパビリオンを見て回り、面白いと感じる。それが未来への夢や希望になっていった。

 そのパビリオンの中で動き、来場者をお迎えするのがコンパニオンであり、ユニホームでした。

 私は三つのパビリオンのユニホームを担当しました。当時まだ20代。若いのによくやりましたよね。黒川紀章さんや一柳慧さん、堺屋太一さんからの依頼でした。

 失敗を恐れたらなんにもできない。やってはじめて結果が出るし、結果は未来のことだから、まずやってみるっていう思いでした。

 ミニスカートを採用して流行の先端そのままを見せました。また、初めての挑戦として、マキシ丈、パンタロンを思いっきり使ったんです。

 万博は建築と同じくらいにファッションが見せ場になります。その国の様子や考え方が一目見てわかる。大国も小国もみんなが平等に挑戦できるチャンスで、無難におさめる必要はないですよね。

コシノジュンコさんがデザインした大阪万博の(左から)「タカラ・ビューティリオン」「ペプシ館」「生活産業館」のユニホーム=2022年、大分市寿町、倉富竜太撮影

 ――当時、斬新と評判になったコシノさんのファッションは、世の中に浸透していきました。大阪博を起点としたファッション業界の変遷をどう見ていますか。

 ユニホームを見たみなさんに…

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