四日市公害判決の意義について語るローマクラブ本部執行役員・日本支部長の林良嗣・東海学園大卓越教授=2024年7月23日午後5時45分、名古屋市の東海学園大学、鈴木裕撮影

 1972年7月24日朝、四日市公害訴訟の判決を津地裁四日市支部(三重県四日市市)の前で待つ人たちの前を、自転車で駆け抜けた青年がいた。世界的な国土・交通工学者、林良嗣・東海学園大卓越教授(73)だ。地球の未来を研究する国際的なシンクタンク「ローマクラブ」本部執行役員・日本支部長でもある林さんは、四日市公害判決の教訓をどう見ているのだろうか。

――判決の当日、その現場を目撃したというのは貴重な経験ですね。

 あの日は、四日市海洋少年団のカッター(小型船)の練習指導に行くため、市内の実家から四日市港に自転車で向かっていました。津地裁四日市支部と道路を挟んだ四日市市役所屋上から報道陣が構えるカメラの放列の前を走り抜け、港に着いて見た海の水がコーヒーのような濁った茶色をしていたことを覚えています。魚が生きられない死の海でした。

――産業の発展とそれに伴う公害発生を、リアルタイムで体験しながら四日市で暮らしていたのですね。

 実家の近くには萬古焼(ばんこやき)の工場が立ち並んでいて、小学校低学年のころは、陶磁器の窯では燃料に石炭やコークスを使っていた。そのせいでばい煙がひどく、洗濯物に黒いすすがつくのが母親たちの悩みでした。60年代にすすが出ない石油窯に入れ替わり、近代化と喜んだ。海岸線では石油化学コンビナートが次々と建設されていった。ばい煙は目で見ることができるが、亜硫酸ガスによる汚染は見えません。恐ろしさに気づかないうちに、四日市ぜんそくの患者が出始めました。

判決の1年後、海に見られた変化

――判決で環境はどう変わりま…

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