ベッドから落ちて目が覚めた。ゴォーと音がした。反射的に、机の下にもぐりこんだとたん大きな揺れに襲われた。浮き上がる机の脚にしがみついた。外でものが割れる音がした。
揺れがおさまり、机の下から出ると、本棚は倒れ、壁が一部崩れて外がみえた。部屋の中は土だらけだった。
「東海地震」が起こった――。
1995年1月17日、大阪府豊中市の古いアパートで朝を迎えた加藤愛太郎さん(50)はそう思った。当時、大阪大2年生。東海地震は「明日起こっても不思議はない」と推定されていた駿河湾沖の大地震だ。76年に大地震発生の可能性を示す学説が発表されてからずっと警戒されてきた。78年には「大規模地震対策特別措置法(大震法)」が制定され、「予知」を前提に「警戒宣言」が出る防災体制が続いていた。
静岡県出身の加藤さんは、子供の頃から東海地震に備える訓練をたたきこまれてきた。
大阪でこれだけ揺れたのだから、実家は壊滅か……。すぐに電話した。ベルの音が響き続け、ようやく母親が出た。
「こんなに朝早くどうしたの」
「東海地震が起こった……」
「何バカなこと言っているの」。しばらく話が通じなかった。
大きな地震といえば東海地震で、関西では起こらないと思いこんでいた。大阪大に入った時は、これで地震の恐怖から逃れられるとほっとした。地震に興味はなく物理学を学んだが、震災を契機に地震の仕組みを学び始め、いまは東京大地震研究所の教授だ。
期待先行 科学の実力にあわない防災体制
東海地震ではないのか、と思った人は加藤さんだけではない。関西で大地震が起こらないと考えられた背景には、ふだん地震の揺れをあまり感じないことに加え、想定された東海地震の存在があったことは否めない。
「想定東海地震」に対して、予知が可能かどうかもわからないのに、期待先行で科学の実力にあわない体制ができていた。阪神・淡路大震災は、そのギャップを研究者に突きつけた。
震災前から「地震予知は原理…