科学季評・山極寿一さん
現代の企業戦略や社会の作り方は、自然科学の普遍的な法則を下地にしている。しかし、そこには誤った解釈や適用の仕方が垣間見られ、そのために政治や経済、社会の作り方が変な方向に進められているという懸念が高まりつつある。
ダーウィンの進化論がその例の一つだ。チャールズ・ダーウィンはビーグル号の航海で目にした多様な生物と環境のつながりを基に1859年に「種の起源」を出して「限りある自然資源をめぐって生物の個体間に競合が生じ、その環境に合った特性が進化する」ことを述べた(自然淘汰(とうた))。1871年には「人間の由来」を著して、人間も生物進化の例外ではないこと、さらに、オスだけが派手な羽を持つクジャクなど一見すると適応的でないと考えられる特徴も異性による選択圧として解釈されることを指摘した(性淘汰)。
この進化論はその後多くの修正が加えられてきている。そもそも遺伝子レベルでは突然変異は中立であるし、環境も常に変動しているので、どのような淘汰圧がかかるか特定するのが難しい。長期間変わらない種もあれば、あっという間に姿を変える種もある。有性生殖で親の遺伝子をコピーするだけでなく、ウイルスなどによって水平伝播(でんぱ)される遺伝子もあるし、多様な要因によって遺伝子の働きが変わるエピジェネティクスも重要になっている。また、ヒトの腸内に共生する100兆個もの腸内細菌が、ヒトの100倍もの遺伝子によって私たちの生理機能や精神活動に影響を与えていることもわかってきた。改めて、進化とは何か、適応とは何かを考え直さなければならない。
ところが、政治や経済は一貫してダーウィン進化論の「競合と淘汰」という概念だけを重視して、「選択と集中」をスローガンに走り続けている。生物と同じように人間の社会も限りある資源をめぐって競合が起こり、状況に適したものが生き残り、そこに投資を集中すれば社会は発展すると考えてきたのだ。アダム・スミスの「見えざる手」という理論は、個人が利己的に振る舞うことによって経済はうまく回るという考えで、現代の新自由主義も政府による介入をできるだけ小さくするべきだという主張だ。
また、政府の主要な方針を見ても、企業や自治体、教育組織はすべて競争させて優れた取り組みを選択し、そこに集中して支援を実施してきたように思う。それぞれの組織の自主性に任せておいてはなかなか改革が進まないので、政府が改革方針を提示して助成金を出し、それをとりに行く競合的状況をつくり出してきた。その傾向は、とくに国立大学改革において顕著だ。
しかし、本当にそれは正しい…