宮沢喜一氏が首相をつとめた1990年代の初頭は、バブルが崩壊し、その影響がじわじわと表れる時期だった。経済通の政治家として、どう考え、どう動いたのか。日々の面会などを記した日録から見えてくるのは、現状分析の確かさだ。しかしそれを政策に生かすことはできなかった。

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自民党軽井沢セミナーで講演する宮沢喜一首相(当時)=1992年8月30日、長野県軽井沢町のホテル

 92年8月7日の日録には、午後9時半に自宅で面会した3人の名前が記されている。いずれも大蔵省(現財務省)の官僚で、次官の尾崎護氏、総務審議官の日高壮平氏(故人)、そして大蔵省から派遣されている首相秘書官、中島義雄氏だった。手書きのメモで「証券市場不安につき contingency planを考えよと指示。尾崎君強く抵抗」とある。

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1992年8月7日の日録に書き込まれた手書きのメモ。「証券市場不安につき contingency planを考えよと指示。尾崎君強く抵抗」と読める

 contingency planとは緊急対応策のこと。当時の株価低迷を背景に、いったいどんな策を指示したのか。秘書官だった中島氏によると、この会合そのものの記憶はないという。ただ、宮沢氏がこのころ、銀行の抱える不良債権の問題を重く考えていたのは覚えている。「かつて米国がS&L(貯蓄貸付組合)の処理に公的資金を使ったことに触れ、日本でもそういうお金の使い方があってもいいのではないかと、よく言っていた」

 不良債権処理のために金融機関に公的資金を投入する策を議論しようとして、大蔵官僚に止められたのか。真相は不明だが、ヒントはある。

 宮沢氏は8日後の8月15日…

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