兵庫県知事選の最終日を迎え、大勢の聴衆を前に演説する斎藤元彦氏(右上)=2024年11月16日午後、神戸市中央区、筋野健太撮影

 2024年、私たちは国内外の数多くの選挙結果と向き合った。SNSの影響が広がり、分断が進んだと言われる時代に、選挙結果と向き合う時に大切なこととは――。日本の政治・行政が専門の神戸大学教授・砂原庸介さんは、「あいまいな『正しさ』を維持することが難しい時代になった」と指摘する。どういうことか、聞いた。

神戸大学教授・砂原庸介さんインタビュー

 ――24年は選挙イヤーでした。何を思いましたか?

 選挙結果には、一喜一憂はしない方がいいのではないか、と感じました。

 私は兵庫県民なので、兵庫県知事選挙は有権者でもありました。斎藤元彦氏が再選という結果に対して、「こんなはずではなかった」「SNSに有権者が洗脳された」「民主主義の危機だ」という論調をしばしば目にしました。

 でも、私はこういう反応には懐疑的です。

 もとはといえば、5~8月までメディアが騒いでいたのが原因で、その後、不信任決議をして選挙になった文脈が抜け落ちているのではないでしょうか。いち県民としても、いち研究者としても、「やらなくてもよかった選挙」「メディアが作った選挙」という要素が大きかったと感じてしまいます。

メディアが作った選挙

 ――メディアが騒いで作った、と?

 亡くなった職員の方がいることや、公益通報をどう取り扱うのかは非常に大きな問題です。管理者としての道義的責任を問う議論はあり得ます。ただ、それらの出来事について個々に責任を問うべきか、には疑問があります。知事の姿勢が問われるとしても、4年に1度、つまり、来年の任期で政治的な責任を問うべき話だったように思います。

 また、仮に責任を追及して知事を辞めさせるとしても、公益通報をめぐる調査結果もまだ出ていなかった。色々な証拠を吟味したうえで、みんなが納得できる形で「悪い」なら、辞めさせるのが良かったのだと思います。でも確たる証拠も挙がっていないうちから、「おねだり」報道などを発信し続け、「県民にとって、この知事は悪い」という雰囲気を作ったのはメディアだと思います。

 不信任決議案を提出して可決したのは議会。もちろん議会にはその責任はあります。でもメディアが作り出したそうした雰囲気がなければ、不信任決議案が出ていたでしょうか。

不信任決議案の投票を見守る斎藤元彦兵庫県知事=2024年9月19日、神戸市中央区、林敏行撮影

 なぜこの選挙をしなければならないのか? 正直、多くの有権者にとってわからないままこの選挙になったと思います。

 メディアの人たちは、知事が辞める前の報道のことを、どう考えているのでしょうか。「視聴率がとれたから」「よく読まれるから」。こういった理由で大量に報道したのだろうと想像できますが、これはメディア自身が丁寧に検証すべきでしょう。

 なのに、そうした検証や反省もないうちに、選挙結果が出ると「報道には選挙期間中の制約があり、SNSでの発信には制約はない。何か対策を、選挙報道を考えなければ」と嘆いてみせる。正直なところ、何かズレているのではないかと思いました。

 ――改めて、問題点は?

 選挙に至るまでのプロセスです。知事を確実に辞めさせるべき要素がない中で、メディア、議会、あるいはこれに影響を受けた市民が、知事を辞めさせるという結果だけを求めたことだと思います。

 実際に投票する時になると、一概に斎藤氏が悪いとは言えない、と思う人も少なくなかったでしょう。本当にやめさせるべきだったのだろうかと考えながら投票した人は少なくなかったことが今回の結果につながったと考えています。

 結果に驚いたメディアより、有権者の方がよほど反省的で立ち止まって考えたことが、今回の結果につながったのではないかと思います。

 しかもメディアは選挙後、「多くの人が陰謀論に釣られた」とでも言わんばかりに、SNSの影響が深刻だと一斉に報道していました。ここでも、果たしてその通りなのか?と受け取られているのではないでしょうか。

 選挙後の報道の中では、特に、自分たちと異なる意見の人に投票をした人たちを、安直に一枚岩だと見てしまいがちなことに注意が必要だと感じます。

人間の判断は0か1?

 ――どういうことでしょう?

 人間の判断は、0か1かはっ…

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