今夏のパリ・パラリンピックに、福岡県出身で今は佐賀が拠点の田中光哉選手(31)がテコンドー日本代表として出場する。自身の体に悩む時もあったという、その道のりや思いを聞いた。(石垣明真)
たなか・みつや 1992年生まれ、福岡県久留米市出身。久留米高(同市)、名桜大(沖縄県)を卒業後、東京都障害者スポーツ協会に勤務。現在は電通デジタル所属。
ひじから先の骨の一部が生まれつきなく、指は右手が1本、左手は3本。また、ひじを伸ばしきれません。
子どもの頃にからかわれた時はしんどかった。友達と遊ぶ時に「手がある人は集まって」とか言われて。「明日の朝、手指が生えてきますように」と願いながら寝たり、親に当たり散らしたり。障害者手帳を提示すれば乗り物などの料金が割引になるのに、そうするのも嫌で。障害者は「あっち側」で、自分は「こっち側」だと思いたかったんです。
――支えになったことがありましたか
周囲の「理解」と過剰すぎない「配慮」だと思います。例えば体育の逆立ち。自分にはできなかったけど、代わりに大人がそばについて前方宙返りに挑戦させてくれ、補助なしでできるように。縄跳びも跳び箱も道具を改良してもらったり、丁寧に教えてもらったりして最終的に跳べるようになりました。
――サッカーとの出会いも大きいと
小学4年の時にワールドカップ日韓大会を見て始めました。腕をほぼ気にせずプレーができ、練習すれば上手になれるのがうれしくて。「障害があっても、サッカーができるからいいや」という感覚にさせてくれた。
振りかえれば、障害を理由に「挑戦」を妨げられることがほとんどなかった。それが「なんでもできるじゃん、自分」という自信につながりました。
――テコンドーを始めたきっかけは
大学卒業後、東京都の障害者スポーツ協会に就職。パラスポーツの普及活動などに関わるうちに、自分もプレーしてみたいと思うようになったんです。東京パラリンピック(2021年)から新種目として採用されるテコンドーに興味を持ち、16年末に開かれた体験会に参加しました。長年サッカーを続けたこともあり、ミットを蹴ると爽快感があって楽しい。
それで翌年から、東京で本格的な練習を始めたけど、簡単じゃなかった。
――どういうことでしょう…