その対局が行われたのは、2005年11月6日のことだった。

 場所は東京・千駄ケ谷の旧将棋会館「特別対局室」。

 床の間を背にするのは、当時33歳で五段だった高野秀行七段(52)。下座に、当時35歳の会社員、瀬川晶司六段(54)が座っていた。

 西山朋佳女流三冠(29)が挑戦している棋士編入試験の決着局が22日に予定されている。史上初の女性棋士誕生の可能性がある一局で、注目が集まる。約20年前、この編入試験が制度化される原点ともなった対局があった。その対局で「試験官」を務めた棋士は、その一局を機に将棋界での生き方を変えたという。

 この対局は、現在の棋士編入試験の前身とも言える「プロ編入試験」の第5局。挑戦者は瀬川六段で、試験官を務めたのが高野七段だった。

 試験は3勝すれば合格で、瀬川六段はここまで2勝を挙げ、「あと1勝」で合格という対局だった。

 プロ編入試験は戦前の1944年に一度だけ行われたことがあり、それ以来となる61年ぶりの試験だった。

写真・図版
プロ編入試験第5局でアマチュアの瀬川晶司さん(右)に敗れた高野秀行五段(左/肩書はいずれも当時)=2005年11月6日、東京・千駄ケ谷の旧将棋会館

 対局では、上位者がまず駒箱を開け、盤上の駒を両者が並べていく。

 だがその駒箱を、上位者である高野七段はなかなか開けることができなかった。

 「手が震えてしまって。駒箱を開けてからも、駒をマス目にまっすぐ並べることができませんでした」

 高野七段は振り返る。

 多くの取材陣、何台ものテレビカメラに取り囲まれ、18畳の特別対局室が狭く感じられた。盤側の立会人の席には、師匠である中原誠十六世名人(77)の厳粛な姿があった。

 プロ入り8年目。これほど注目される対局は初めてだった。

 「正直、負けちゃいけないという思いが強かった。当時は今よりもアマとプロの差があった時代でした。アマからプロになる制度もなく、完全な別世界でした。それを自分が崩してしまうかもしれない。といっても、将棋界の歴史を背負う、そんな責任を感じるほど自分は強くないんですけどね」

 将棋のプロである「棋士」になるには、原則として、棋士養成機関「奨励会」で年2回ある三段リーグで上位2人に入らなければならない。「26歳までに」という年齢制限があり、才能ある多くの若者がその壁に阻まれて奨励会を去ってゆく。

 瀬川六段は奨励会の元三段。この対局の9年前に年齢制限で奨励会を退会していたが、その後、アマチュアの大会で活躍。プロの公式戦に招待選手として出場するようになると、めざましい活躍を見せる。2000年、早指しのテレビ棋戦「銀河戦」で7連勝。04年にはA級棋士に勝利した。

 これほど強いならプロにという期待の声があり、瀬川六段はプロ入りの嘆願書を日本将棋連盟に提出した。連盟は05年5月、棋士総会を開いて投票を行い、賛成多数で特例としてプロ編入試験の実施を決めた。その時点で瀬川六段の対プロ成績は勝率7割を超えていた。

 「私と瀬川さんは奨励会の同期なんです。三段リーグでも戦いました。将棋が始まってしまえば、緊張はなくなりました」

 後手番となった瀬川六段は「横歩取り8五飛戦法」を採用した。瀬川六段の活躍の原動力となった得意戦法だ。だが高野七段の指し手は的確で、早い段階で指しやすい形勢になった。

 「はっきり優勢の将棋になりました。でも中盤、攻めるか守るかという局面で、守りに手が行ってしまいました。そこは攻めるべきところで、そういう場面で決めにいけないのが自分の弱さです」

 その手を境に形勢は徐々に瀬川六段に傾き、終盤で混戦模様になったが、形勢は終始苦しいままだった。

 「負けました」

 頭を下げたその瞬間、目の前で1人のプロ棋士が誕生した。

 「終局後、大盤解説会が開かれていた近くの鳩森八幡神社の社務所に向かいました。土砂降りの雨でしたね。何をあいさつしたかは覚えていません。それから対局室に戻って感想戦をして、その後に記者会見がありました。私への質問はほとんどなかったと思いますが、やはりよく覚えていません」

 夜、自宅近くの行きつけの居酒屋に立ち寄った。テレビでは、自分が負けたニュースが報じられていた。

 「私の棋士の人生の中で一番大きな将棋でした。こんなに注目される対局はそうあるものではなく、たしかNHKのトップか2番目ぐらいのニュースだったと思います」

 その注目の主役は自分ではなかった。一度はプロの夢をあきらめてサラリーマンとなっていた瀬川六段の再挑戦を、世の中全体が応援する空気があった。

 対局の前、高野七段の自宅には、数通の手紙が届いていた。

 「手紙には『負けろ』と書か…

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