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立命館大学教授で副学長の松原洋子さん=京都市中京区

 旧優生保護法(1948~96年、旧法)下での強制不妊手術をめぐる裁判で、最高裁大法廷は3日、旧法を「立法段階から違憲」として国に賠償を命じる判決を出しました。過去の誤った政策からの教訓は何か。旧法の問題に詳しい立命館大学教授で副学長の松原洋子さん(生命倫理)に聞きました。

 ――どんな教訓を受けとるべきでしょう。

 本来、治療以外の目的で同意なく身体を傷つける行為は傷害罪に問われるものです。旧法は、「不良な子孫」をもたらすとされた人への強制手術を、特別に合法化するものでした。これは、「優生上の見地から」の出生防止が公益のためで、国として推進すべきだという優生思想を前提としています。

 旧法下の不妊手術は、社会に不都合と見なされた一部の人々を、社会防衛の観点から「管理」することが目的でした。

 そのような人々を、差別的に「精神病」「精神薄弱」といったカテゴリーに分類して対処する、不妊手術はその一環だったのです。状況によっては、誰もが対象になる可能性がありました。

 たとえば、いわゆる非行少年が精神科病院に入れられて、「精神分裂病(のちに統合失調症と改称)」とみなされ手術された、今回の原告の一人の小島喜久夫さんのような例があります。

 また、福祉の負担を軽減するという目的もありました。遺伝性の障害だけでなく、ハンセン病患者や遺伝性ではない知的障害のある人へも不妊手術が行われ、本来は優生保護法の対象ではない脳性まひの女性に対する子宮摘出手術も行われました。遺伝性ではない障害に対しても「優生上の見地」が幅広く適用されたのです。

 国民の質を高めるという思想の裏にあったのは、社会防衛や福祉コストの軽減という、現代にも通じる観点でした。

 また、旧法下での人権侵害は、障害を「医学モデル」で捉える中から生まれたものでした。この点も重要な教訓です

 ――医学モデルとは。

 障害を、その個人の中に存在する、生物学的、医学的な性質だと捉えるのが「医学モデル」です。対して、障害は、その個人にあるものではなく、社会がつくると捉えるのが「社会モデル」です。

 たとえば、病気やけがで階段を上れない人がいる。上れないのは身体の問題だとみなすのが医学モデル。一方、スロープやエレベーターをつければ上ることができる。つまり障害をもたらすのは環境であるとみなすのが社会モデルです。

 ――なぜ警戒が必要なのでしょう。

 医学モデルでは、解決が難しく深刻な問題と思われることを、その人の身体の問題としてだけ捉えて解決を図る傾向があります。本当は、障害は社会の仕組みがつくる面があって、さまざまな解決のやり方はあるのに、その大事な側面を隠してしまいます。

 また、「この病気や障害がある人は幸せではない」などと、病気や障害を医学的に特定することと、人の人生の幸、不幸という価値とを直結させてしまうおそれがあることも、医学モデルの警戒すべき点です。

 医学的には同じ障害でも、周囲との関係性によって困難の度合いは違う。何を好むかや楽しいと思うかなども当然違います。

 それなのに、医学的な尺度だけで違いがある人や困難の中にある人を「気の毒」と捉える。気の毒な障害者は生まれないほうがいい、そのほうが社会のためになると考える。そこに、不妊手術という技術的な「解決策」を示す――。

 このように、差別を一種の「道徳」に格上げして制度に落とし込み、正当化する。それが旧法下で起きたことでした。

 問題の原因はその人の身体にあると捉える傾向は、過去のものではありません。長く不利な立場におかれてきた女性や、トランスジェンダーなど性的少数者、または、人種の概念に基づく差別を正当化しようとする根拠として、今も残っています。

 ――近年は、生まれる前に障害や病気の可能性を調べる検査もあります。誰に強制されるものではないものの、歯止め無く広がることで、特定の障害のある子が生まれてこないような未来が懸念されています。

 障害を医学的に特定し、中絶…

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