今回は、私が精神科医になって間もない、1996年のお話をご紹介します。高齢者虐待として、「経済的虐待」が問題になる前のことです。私のクリニックがある大阪の下町の住宅街は、少しずつ人口が減少していて、昼間に歩いても人と出会ううことがあまりなく、認知症のひとり暮らしの人は静寂の中、声を潜めて生活していました。そして、金銭搾取を目的とした、悪意に満ちた業者が存在していたのです。今回も個人情報保護のために事実の一部を変更し、仮名で紹介します。
判断力低下しても、ひとりで暮らせる人
山之内和子さんは、私が大学病院から地域に戻った数年後に受診されました。ひとり暮らしの当時74歳で、アルツハイマー型認知症の初期と診断しました。
認知症が始まっていても、地域の協力や家族・親戚などの関わりがあれば自宅でのひとり暮らしができる人がいます。山之内さんもそのような一人でした。
誰が見ても明らかに認知症で判断力が低下している人は悪徳業者から狙われる可能性が少なく、むしろちょっと会ったくらいではその人の病状がわからないくらいの人こそ、金銭の搾取や被害にあいやすいことがわかっています。
軽度では、誰かと会って注意力が働いている時には脳がしっかりとしますが、さびしさや心細さにつけ込むように近づき、親切なふりをして心の中に忍び込んでくるような相手には注意が必要です。
山之内さんも、近所の人とあいさつを交わしている程度の付き合いでは、判断力の低下に気づかれなかったレベルでした。
つらさや寂しさに入り込む「悪徳業者」
そんなある日、彼女の家に住宅設備会社を名乗る男がやってきました。
「お宅の台所の床は、表面から見ると何もないようだが、土台が腐っていて、このままでは家が傾いてしまう」と言うのです。彼女は最初、とても怪しいと感じました。簡単にはだまされないとの気力もあり、毅然(きぜん)と対応したようです。
しかし、その業者は何度か彼女の家に来て、これまでの人生や家族のことを聞き出しました。山之内さんには娘が1人いましたが、思春期の頃からそりが合わず、娘は結婚したのと同時に家を出て、自身が住む大阪と娘が住む北海道で行き来が全くない状態でした。
業者は言いました。
「そんな悲しい別れをしたの…