広島、長崎の被爆体験をもとに核兵器廃絶を訴えてきた日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)に12月10日、ノーベル平和賞が授与される。その地方組織の一つ、「香川県原爆被害者の会」は日本被団協よりも長い歴史がある。高松支部長の森岡智子さん(84)に思いを聞いた。
- 孤児になった被爆者が9年ぶりに証言 「胸が裂けるほどつらかった」
――ノーベル平和賞受賞の決定をどう受け止めましたか
決定のニュースを知った日は、会員と「やったね」と喜び合いました。継続は力なりだな、と胸にじーんとくるものがありました。目立つ活動ではないけど、人類にとって大きな活動だったんだなあと。
ただ、核兵器がなくなったわけではなく、「核兵器のない世界」の実現を訴える活動を続けてきたこと自体が評価されたに過ぎません。受賞はゴールではなく、今からがスタートです。
――香川の会の概要を教えてください
全国組織の日本被団協ができる9年前の1947年8月10日に結成されました。資料のある2015年時点での会員は190人で、多くは米軍の広島、長崎への原爆投下によって被爆しました。生まれる前に母親の胎内で被爆した方が会長だったこともあります。国に被爆者援護策の拡大を求めることや、核兵器廃絶を訴えることが活動の柱です。慰霊祭の開催や被爆の実相を伝える語り部活動などに取り組んできました。
――森岡さんの被爆体験はどういうものですか
広島に原爆が投下された45年8月6日、広島県向原町(現安芸高田市)にある母の実家にいました。その後、愛媛県新居浜市に戻る途中で広島市内に入り、入市(にゅうし)被爆しました。
当時4歳だったこともありほとんど覚えていないのですが、姉によると(爆心地から2キロ以内の)旧蟹屋町にある母の妹の家で冷蔵庫の卵を食べたそうです。ただ、両親は原爆のことを一切話題にしませんでした。あまりにつらい体験だったため、話したくなかったんだと思います。
――会にはいつごろ入られたのでしょう
40年近く前ですが、初めは熱心な会員ではありませんでした。積極的に活動するようになったのは、会合に参加したとき、1人の男性が晴天の空を見て「被爆した日を思い出すなぁ」と言いながら当時の体験を語るのを聞いたことです。
学校の校舎から運動場を見ていた時に原爆が落とされ、隣にいた友人の体に無数のガラスが突き刺さり、血だらけで倒れていたそうです。涙が止まらず、原爆はおろか、戦争もなくさないといけない」と感じ、熱心に活動するようになりました。高松支部長になったのは10年前です。
――厚生労働省によると、全国の被爆者の平均年齢は85.58歳(今年3月現在)といいます
香川の会でも、会員の減少と高齢化が課題です。県内にはかつて東讃、三木、高松、坂出、丸亀、観音寺の6支部がありましたが、現在活動しているのは高松と観音寺のみです。高松では10年ほど前は会員が100人近くいましたが、現在は40人を下回っています。
活動できる被爆者が少なくなる中、被爆2世の会員に期待しています。被爆を経験した親の姿を見てきた彼らには、核兵器の恐ろしさに対する理解や知識があると思っています。現在も、2世会員の一部は役員として会の運営に携わってくれています。将来は被爆2世に限らず門戸を広げ、平和を願う人にも活動に関わってもらいたいと考えています。(木野村隆宏)
森岡智子さんのプロフィール
もりおか・ともこ 1940年に広島県で生まれ、愛媛県新居浜市で育つ。勤めていた会社の新規事業の立ち上げに伴い高松市に移住。約40年前に「香川県原爆被害者の会」の会員となり、2014年ごろから高松支部長。娘夫婦や保護犬と暮らす。趣味は俳句。