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1966年、日本武道館の特設ステージで演奏するザ・ビートルズ。日本のロック史を語る上で欠かせない歴史的公演に位置づけられている
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 ロックが熱い時代があった。旧体制に「NO!」を突きつけるエネルギッシュな音楽だった。浴びるように聴いた若者たちは、自身のアイデンティティーをかけてロックを、音楽を、時代を語った。

 そんな人々の言葉で埋め尽くされたのが、後に日本を代表する音楽雑誌になる初期「ロッキング・オン」。「創刊四人衆」の1人で、時代デザイナーの橘川幸夫さん(75)は語る。「雑誌は投稿のライブハウスだったんだ」。では、おたずねしたい。今の時代、熱いロック語りは存在するのか、と。

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 ――「音楽を語る」といえば、熱量高い「ロック語り」を連想します。

 「今の若い人は想像できないだろうけど、俺が10~20代だった1960~70年代、ロックは、旧来の芸能界的な体制の外側にある最先端でアンダーグラウンドなサブカルチャーだった。ビートルズやジャニス・ジョプリンなど、出会う音楽がどれも新鮮でね。そして、俺は東京・四谷生まれなんだが、都内の大学生だった70年、日比谷公園の野音(大音楽堂)であったコンサートでロックの迫力に初めて触れたんだ」

 「ブラインドバード、M、フラワー・トラベリン・バンドなどが印象的だった。下手なバンドも、切羽詰まった感じに圧倒された。今すぐ叫びたい! 訴えたい! 表現したい! ジャズやクラシックは、技術を磨き、感動させられるレベルになった上でステージに立つが、そんな時間はない!って。すごい音楽だと思った」

「活字でロックをやろう」

 ――72年、後に日本を代表する音楽雑誌となる「ロッキング・オン」を音楽評論家の渋谷陽一さんらと創刊しました。雑誌は今でこそミュージシャンのインタビューが中心ですが、当時は、読者投稿が中心でした。

 「楽器も弾けないし、歌えないが、俺もロックをしたい。ミュージシャンみたいに叫びたい。だったら『活字でロックをやろう』ってね。当時俺は大学生で、渋谷は浪人生。他のやつらも学生だった。金もない、経験もない、人脈もない、世間も知らない。最終目的地もわからないまま動き始めた。投稿を募ったのは、同じようにロックに刺激を受け、叫ぼうとしているやつらと連帯したかったからだ。投稿のライブハウスだったんだ。原稿料は払わないのに、どんどん投稿が来たよ」

 ――当時の投稿を読むと、作品の客観的分析というより、ロックに自分を託して熱く語っています。ロック語りの源流でしょうか。

 「当時の投稿者とは今も付き合いがあるが、俺も含め皆、地域や学校になじめず、既存のコミュニティーからあぶれて孤立していた。だから、旧体制に異議申し立てするアンダーグラウンドカルチャーであるロックは『希望』であり『可能性』だった。客観的な分析対象ではなく、『自分がいま言わなきゃいけない』ことを言うためにあったんだ」

 「あの頃、社会は至る所で成長を促し、物質的な豊かさを追い求めていた。みんな、そんな現状に反発し、でも対案を示せず、もがきながら『とにかく、今のままじゃ駄目なんだ!』と叫んでいるように見えたね。ロッキング・オンはそんなやつらを、ロックを通じて『つながり合える場』として提供したんだ。投稿はラブレターみたいなものだったね。ロックを語ることを通じて、コミュニティーを作れると思った」

変容するロック「俺の居場所はここではない」

 ――ただ、70年代後半、雑誌は商業路線を強め、投稿は廃れていきます。

 「ロックやマンガというカル…

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