「液晶のシャープ」の終わり②
1912年に早川徳次氏が創業したシャープには長年、「一流になりきれない家電メーカー」というイメージがついて回った。
規模は小さい。販売力も弱い。技術で勝負し、「一流」になるにはどうすればいいか。86年に就任した3代目の辻晴雄社長は、液晶に目をつけた。
社会の情報化が進めばディスプレー需要は増えるはず。独自の技術で魅力ある製品を生み、得られた知見や収益でさらに技術を高めるという「スパイラル戦略」を液晶で推し進めた。
技術系社員だった男性は90年代、奈良県天理市の液晶工場で働いていた。新しい技術を導入し、量産化への道筋をつけることが役割だった。
液晶の担当者たちは次々と成果を出した。屋外でも見やすく、消費電力を抑えた「反射型カラー液晶」が98年発売の任天堂「ゲームボーイカラー」に採用されるなど、主にノートパソコン向けだった液晶の用途をゲームや携帯電話などに広げた。
技術力の高さもさることながら、開発を率いたリーダーの求心力と取引先に対する巧みな話術が、躍進を支えた。
後に社長となる、片山幹雄氏に他ならない。
「研究所の新技術を、片山さ…