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《1968年、フォーク歌手岡林信康が「山谷ブルース」でデビュー。学生運動が盛んだった当時、メッセージ性の強い歌が多くの若者の心をとらえた》
歌の力を感じた。歌詞がバーンと頭に入ってくるんだ。それまで俺はギターが中心で、ボーカルってのは楽器のできないやつ、カッコつけたやつがやるもんだと思っていた。歌詞も英語でわかりづらかったし。
シンガーソングライターで俳優の泉谷しげるさんが半生を振り返る「叫ぶ、ねたむ、かけずりまわる」。全4回の2回目です。(2025年1~2月に「語る 人生の贈りもの」として掲載した記事を再構成して配信しました)
でも岡林さんの歌を聞いて考えが変わった。日本語で歌うって、こんなにすごいものかと。
自分でもフォークをやり始めたのは、実家が全焼してエレキギターが焼けちゃったということもあった。そのときにたまたまバンドのメンバーの楽器やアンプを預かっていて、全部だめにしちゃった。みんなに弁償しようと思い、バイトで始めたのが、生ギター1本でできるフォーク。フォークブームになってたから、労働組合の集まりとか、歌える場所が結構あった。
岡林さんの「それで自由になったのかい」なんかをコピーしてた。あの歌詞には労働組合をちゃかしたところがあって、共産党の赤旗まつりで歌ったら、すごい抗議するやつがいて。それでケンカ。音楽を政治の道具だと考えているようなやつはだめだなと、そのとき思ったね。
《69年、東京・新宿駅西口地下広場に若者たちが集まり、反戦歌などを歌い始める。フォークゲリラである》
毎週土曜に行ってた。ギターを持ったのが並んで、それに合わせて、みんなで歌う。「受験生ブルース」の替え歌の「機動隊ブルース」とか、岡林さんの「チューリップのアップリケ」、それからやっぱり「友よ」。大合唱して、高揚感にひたってたな。機動隊に排除されたときもその場にいた。催涙弾を浴びちゃって、水で目をじゃばじゃば洗うんだけど、痛い痛い。
当時のフォークは、学生運動と一緒に盛り上がっているところがあった。そのうち仲が悪くなっちゃうんだけどね。
「青い森」で清志郎に打ちのめされ
《20歳のころフォークソングにのめりこんだ後も、漫画の投稿は続けていた》
だけど、だんだん部屋にこもってカリカリ描いてられなくなって。だって街が騒然として面白いわけ。フォークゲリラもそうだし、寺山修司は演劇やってるわ、全共闘はデモしてるわ。
東大赤門なんかの学生集会に…