赤い欄干の橋を渡り北門をくぐれば右に「京華園」、左に「会楽園」。長崎新地中華街が広がる=長崎市新地町

現場へ! 変貌する中華街②

 9月6日、長崎新地中華街(長崎市新地町)の公式サイトに、中秋節のランタン装飾を「諸般の事情により」中止する、との告知が掲示された。

 中秋節は日本の月見にあたる中華の伝統行事。新地中華街では満月に見立てたランタンを飾るのが恒例だ。2005年に客足の鈍る9月を盛り上げようと企画され、昨年も黄色いランタンが幻想的に街を照らした。

 「できるものならやる」と長崎新地中華街商店街振興組合の林慎太郎理事長(49)。ランタンを飾るにも経費が必要。だが1986年に完成した東西南北4基の中華門のうち3基の瓦が傷み、安全のためにも、まずは北門のための多額の修繕費用を優先せざるを得ないという。「いずれ他の門も修理が必要。寂しいが、やむを得ない」

厨房の人手不足深刻

 組合加入36店舗中、料理店は14店。林さんも27年創業の「会楽園」3代目だ。「今の新地で深刻なのは厨房(ちゅうぼう)の人手不足」と話す。「中華を志す若者は少なく、店側も秘伝のレシピを守るため人選が厳しい。店を継ぎ久しいが、料理人でもある僕は今も厨房が回らぬ時は鍋を振っている」。ホールスタッフも求職者の希望は駅前の繁華街などに集まりがちといい、「大口の宴会が同日に重なると対応が厳しくなることも。突破口を模索するばかり」

 新地中華街の歴史は元禄時代、オランダ人の出島と同様に設けられた居留地「唐人屋敷」にさかのぼる。中国貿易で栄えたが1698年、大火で荷蔵を焼失。苦い経験を経て、再発防止のため居留地前の海を約3500坪埋め立て、新設した蔵所が新地と呼ばれた。

 明治維新後、唐人屋敷の廃止で新地に移住した人々が中国人街を形成した。日本人との結婚も盛んで日本国籍の取得も進み、クオーターの林さんも華僑だが国籍は日本だ。

必須ではない中国語

 「昔は新地にほど近い孔子廟に長崎華僑時中小学校があり、華僑の子どもはほとんど通っていた」と話すのは44年創業の「京華園」顧問、劉済昌(りゅうさいしょう)さん(75)だ。「とはいえ私も友人の多くも家庭では日本語で育ち、中学部がないから6年かけて片言になった中国語も卒業すれば使わないから忘れてしまう」。その時中小も児童数が減り、88年に閉校した。孔子廟に長崎時中語学院が新設され、生徒に新華僑の子どもたちが増えた10年ほど前にはおよそ70人が学んだが、現在は50代を中心に12人、2人を除いてすべて日本人だ。

 やはり時中小を卒業したホテ…

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