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教育虐待のイメージ

 「父みたいなことは絶対したくないと思っていたのに。結局、同じように子どもを苦しめてしまっていました」

 東京都内に住む40代女性は幼い頃、「教育」と称して父親から暴力を受けた。

 当時は、愛情を持ってくれているとも感じていた。実際は、父の期待に応えられない自分を責め、その傷が心に深く刻まれていたのに。

 そのことに気づいたのは、数十年たってから。自分で子育てをするようになってからだった。

「教育」と称して父から暴力を受けてきた女性。「期待に応えられなかった」という自己否定の苦しみが、自身の子育てにも連鎖していきます。

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 地方都市で、3姉妹の長女として育った。3人で人形遊びをしたり、家の中でかくれんぼをしたり。姉妹でほとんど毎日一緒に遊んでいた。

 銀行員だった父は、寝る前に毎晩絵本を読んでくれた。

 ストーリーをまるごと覚えた。その記憶力に父は驚き、「県で一番良い学校に行け」と繰り返すようになった。

 期待をかけられたのは、姉妹の中で自分だけだった。父の意思で、週に7回習い事に通った。水泳に体操、書道、ピアノ……。「教養があれば人生が楽だ」というのが、父の信念だった。

 放課後に友達と遊ぶ時間も無かった。中学からは、塾にも通った。

 逆らおうなんて、考えたこともなかった。テストの成績が悪いときはもちろん、ささいなことが引き金で、父の機嫌は悪くなった。夜中に起こされて殴られることもあり、泣くと頻度は増した。

 母は父の言いなり。ひどく怒られた後は、妹がなぐさめてくれた。

 振り返れば、「教育虐待」だったと思う。

 父の顔色をうかがい、優等生を演じた。中学では学級委員に手を挙げ、合唱コンクールで指揮者を務めた。習い事のおかげで、運動も音楽もなんでもできて注目されることが多かった。

 本当は「常に劣等感にさいなまれ、あるべき自分でいるために必死だった」。

 優等生であろうとする気持ちとは裏腹に、成績は伸び悩んだ。暗記で点数が取れる学校のテストは良かったが、高校受験の模試は全然だめ。父が望んだ第1志望校には入れず、滑り止めにも落ちた。

 第3志望だった「中の上」くらいの偏差値だった私立高に入学し、学校に近い祖父の家で生活するようになった。新しい環境で人間関係にも悩んでいたとき、寂しくなって実家に電話をかけた。受話器をとった父は「いちいち電話してくんな」。

 期待に応えられない自分は捨てられた、と感じた。自分は必要のない人間なのではないか。ストレスで食べ続け、体重は15キロ増えた。

 大学に進学後、食べて吐くという一連の行為が「日々の作業」になった。友達との予定をキャンセルすることもあった。

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