オスロで2024年10月11日、ノーベル平和賞を授与すると発表した日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)のロゴを掲げたノルウェー・ノーベル委員会のヨルゲン・ワトネ・フリドネス委員長=ロイター

 広島・長崎の被爆者らで組織する日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)のノーベル平和賞受賞が決まった。歴史学者、東京大名誉教授で、被団協の国際活動において通訳を務めるなど長く尽力してきた西崎文子さんが寄稿で、受賞決定に至る被爆者たちの長年の歩みを振り返る。

 ノーベル平和賞発表の場でフリドネス委員長が示したのは、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)への深い敬意であった。被爆からほぼ80年。核兵器の使用は道徳的に容認できないという国際規範の形成にとって、被爆者の証言は唯一無二のものだったという。

 それは長い道のりであった。被爆者が語り始めるのは原爆投下から11年後。この孤独な年月は、被団協の揺るがぬ土台を確立するのに必要な時間であった。結成宣言「世界への挨拶(あいさつ)」には、この間の苦悩が滲(にじ)み出る。「かくて私たちは自らを救うとともに、私たちの体験をとおして人類の危機を救おうという決意を誓い合ったのであります」。それは、あの瞬間に無惨な死をとげ、その後原爆症で亡くなった人々に代わっての言葉である。

 被爆者は、以後たゆまぬ歴史を紡いできたが、彼らを迎えたのは、社会の無理解と冷淡であった。核競争が激化する中、ソ連の核を容認するかを巡って原水爆禁止運動は分裂した。歴代首相は米国の核戦略を容認し、核保有は必ずしも憲法に違反しないとの見解を踏襲した。その一つ一つが、核兵器と人間とは共存できないと信じる被爆者を苦しめた。

 中でも衝撃的だったのが、厚…

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