「磯吉聞書」の写本。磯吉が持ち帰ったロシア皇太子の銅版画も写し取られている

 江戸時代後期、船で遭難した伊勢国南若松村(現在の三重県鈴鹿市)の船頭・大黒屋光太夫や乗組員の磯吉は、漂着先のロシアから約10年ぶりに帰国した。近江国水口(滋賀県甲賀市)の和尚が磯吉を訪ね、興味津々、あれこれ質問する。その問答集(全30問)が残っていた。

珍しい話、土産話に

 蘭学者の桂川甫周が幕府の命を受け、光太夫からロシアの事情を聴き取った「漂民御覧之記(ひょうみんごらんのき)」は写本を重ね、全国に広まった。しかし磯吉から聴き取ったとはっきりしている史料はほとんど残っていなかった。鈴鹿市文化財課の代田美里学芸員が甲賀市図書館所蔵の史料からこのほど「磯吉聞書」を見つけた。

 光太夫らは帰国後、江戸に留め置かれたが、数えで33歳の磯吉は1798(寛政10)年12月から約1カ月間、帰郷を許された。

 「磯吉聞書」などによれば、近江国の蓮華寺の義応和尚はたまたま津に来ていた。ロシア帰りで有名人だった磯吉が帰郷しているとうわさを聞き、訪ねた。「漂民御覧之記」に書かれていない珍しい話を聴いて土産話にしようと考えたらしい。

唇と唇を合わせる習慣についても

 磯吉は江戸に帰る支度に忙しかったが面会に応じた。ロシアの皇太子の銅版画を見せ、漂流のいきさつから語った。

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