• 写真・図版
  • 写真・図版

 レギュラーシーズンで54本ものアーチを架け、2年連続3度目のMVP獲得。大リーグを代表するスラッガーとなったドジャースの大谷翔平(30)が、その礎を岩手・花巻東高時代に築いたのは有名な話だ。

 だが、その最初の一歩。球児としての「公式戦初本塁打」を目撃することができた人は、ごくわずかに違いない。

 東日本大震災が発生した2011年の5月4日。当時16歳の2年生だった大谷は、花巻球場での春季岩手県大会地区予選2回戦に臨んでいた。

 対戦相手だった花巻南の高橋克寿監督(当時)は、花巻東のオーダー表を見て目を見開いた。「うちにいきなり全力でぶつけてくるとは」

 「3番投手・大谷」とあった。

 花巻東は09年春の選抜大会で準優勝し、夏も全国4強の強豪。一度も甲子園の土を踏んだことがない公立校に対し、うわさの逸材をぶつけてきたからだ。

 その能力は耳にしていた。

 大谷は1年春からベンチ入りし、秋には投打でチームの柱に。190センチ近い長身から時速140キロ超の球を投げおろし、打席でスイングすれば空気が震える。秋の公式戦での先発マウンドは2試合しかなく、まだベールに包まれてはいたが、県内をざわつかせる存在だった。

  • 書けなかった2人だけの会話 友達だから大谷翔平を「売りたくない」

 球児が力を伸ばすとされる冬を越えて、「二刀流」の起用でどんなプレーをするのか。高橋さんは底知れない怖さを感じたという。

 一回表。大谷にあいさつ代わりの先制適時打を見舞われた。1死二塁、フルカウントからの6球目を逆方向に打ち返され、左中間を破られた。

 攻守交代したその裏は、大谷にストライク先行の投球で圧倒された。「マウンドとの距離が近く見えた」という。

 速球を主体に投げ込まれ、バットに球が当たっても外野へ球を飛ばすことすらできなかった。試合は花巻東のワンサイドゲームで進行していった。

 三回表1死一、三塁。先頭で二塁打を放った大谷が、この回2度目の打席へ。その時だった。

 「うわっ」

 高橋さんはベンチで目を覆っ…

共有