
20年ほど前のことだ。マレーシアの首都・クアラルンプール。日本車や日本製の家電があふれ、日系企業の進出で和食もブームだった。
中華系住民(華人)のギャリー・リットさん(65)一家は、子供の誕生日祝いに「すしレストラン」に向かっていた。駐車場に車を止め店に入ろうとした時、母親のチュー・ヨック・チェンさんが、全身を激しく震わせ始めた。
「家に帰らないと……、家に帰らないと……」
視線の先には、店頭に掲げられた日の丸の旗があった。
リットさんはなだめた。「お母さん、戦争はもうとっくに終わったよ。そんなことは忘れて、さあ中に入ろう」
震えが止まらない母にかけた言葉が、いかに酷だったか。後悔なしに振り返れない。
母が見た日本軍の「粛清(スッチン)」とは
母は1933年、マレーシア北部のペラ州で、華人が多数を占める小さな町に生まれた。8歳だった41年の冬、太平洋戦争が始まる。日本軍は2カ月ほどで英領マレー(現マレーシアのマレー半島、シンガポール)を占領した。
リットさんが幼いころ、母はポツポツと占領下の記憶を語った。当時を描いた映画をテレビで見ていた時には、日本兵が人々の首を切り落とすシーンを見ながら「本当に起きたことだよ」と言った。
母から聞いたのは、「粛清(スッチン)」のこと。主に占領初期、日本軍が敵性とみなした華人を掃討する作戦の一端だった。
当時10歳前後だった母の記…