浜美枝さん=2021年、神奈川県箱根町、井手さゆり撮影

 近所の八百屋のおじさんも魚屋のおじさんも、みんな必死に働いて生きていました。戦後の混乱期ですから。父だけが違いました。

 「心ここにあらず」、もしくは「生気が抜けた」と言えばいいんでしょうか。戦争から帰ってきて何年も、生きる気力を失っていました。

 ちゃぶ台で新聞を隅から隅まで黙って読む姿や、ご飯時に無言で白い瀬戸物のとっくりを傾けてお酒を飲む姿。幼い頃の記憶にある父は、とにかく無口なんです。

 貧しい長屋暮らしでしたから、隣近所なんて、それはもうにぎやかなものです。ところが、父は人付き合いがない。家族とさえ、会話はほとんどありませんでした。本当に、「おはよう」とか「おやすみ」くらい。

 でも、私は物静かで優しい父が大好きでした。

「どこに戦争に行ったの?」 問われて固まった父

 父・浜田三郎は1913年、熊本県の八代で生まれました。実家は裕福な米問屋でしたが没落。三男だった父は20歳前後のころ祖母と2人で上京し、やがて母と結婚しました。

 東京の亀戸で小さな段ボール工場を始め、従業員さんを4、5人雇うまでになったそうですから、相当な働き者でした。そして戦争が始まり、出征しました。

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 父が復員した時の記憶はありません。工場も家も東京大空襲で焼け、従業員さんたちはみな亡くなってしまいました。私たち家族は亀戸を離れ、現在の武蔵小杉あたりに移り住みました。

 復員後、父は決して戦争の話をしませんでした。私、聞いたことがあるんです。「戦争の時、どこに行ったの?」と。長屋の狭い6畳間で、父と2人きりの時でした。

 目を閉じ、無言のままの父…

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