米軍が広島、長崎に原爆を投下してから、もうすぐ80年。両方の原爆投下機に搭乗した米兵の孫と、両方で原爆に遭った「二重被爆者」の孫が出会い、友情を築いています。2人に折々の国際情勢に触れながら手紙を交わしてもらう企画を始めました。
小学校1年、6歳の時、夏休みの宿題の作文を書くため、初めて祖父に戦争体験を聞きました。
「おじいちゃん、戦争と原爆のことを教えて」
祖父・山口彊(つとむ)は淡々と答えてくれました。「ぼくは広島と長崎で原爆に2度遭った二重被爆者だ」と。
1945年8月6日、三菱重工業の技師として出張先の広島で被爆し、地元・長崎にたどりついたあとにも被爆しています。祖父は「キノコ雲が広島から長崎まで追いかけてきた」と書き残しました。
私の知る祖父は、いつも本を持ち歩き、新聞、雑誌を読み、短歌を詠みました。穏やかで、声を荒らげたり、たたいたり、怒鳴った姿を一度も見たことがありません。物静かで、いつも穏やかな人でした。
《大(だい)広島炎(も)え轟(とどろ)きし朝明けて川流れ来る人間筏(にんげんいかだ)》
祖父にとって短歌を詠むことは、原爆に対する怒り、悲しみ、憎しみ、記憶、心の傷を浄化する唯一の表現方法だったのでしょう。
祖父が語り部活動を公の場で始めたのは90歳になってからでした。それまでは、静かに短歌で核廃絶を訴えていました。戦後にも「語り部活動をしたい」と家族に打ち明けたらしいのですが、猛反対されました。被爆の後遺症で右耳しか聞こえなくなっていたことや、娘2人が未婚だったこともあります。被爆者や被爆者家族に対する偏見や差別が色濃い時代でした。
祖父は2010年に93歳で他界しました。私に、自分の戦争・被爆体験を語り継いでほしいとは一言も言いませんでした。ただ、生後1カ月もしない息子(ひ孫)を抱いている私に「後は、君にバトンタッチするね」と、それだけを言い残しました。
祖父は「アメリカ人が憎い」とは一度も言いませんでしたが、「アメリカが原爆を広島・長崎に落とし、大量の人間を殺し、町を焼き尽くし、生き残った人の心を傷つけたことは、絶対に許せない」と言っていました。
13年6月、米国人のアリ・ビーザーさんが被爆2世の母に会うために、長崎に来るとの連絡をいただきました。アリさんの祖父は、広島・長崎で原爆投下に関わったとのこと。原爆を投下した米国人兵士の孫が、なぜ日本人の被害者家族にわざわざ会いに来るのか。私が原爆を投下した兵士の孫ならば、会いにくることは出来ません。
出会ってから11年、共に活動するようになったアリさんと私。被爆80年に向けて発信する孫たちの声が、核兵器を持ち続ける世界への警告と、人類を平和へと導く希望になると信じています。(文=原田小鈴、構成=核と人類取材センター・田井中雅人)
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原田小鈴さん略歴
はらだ・こすず 1974年、長崎市生まれ。広島・長崎「二重被爆者」の祖父山口彊(つとむ)さんの体験を、母の山崎年子さん、息子の晋之介さんとともに家族で語り継いでいる。長崎大学平和講座非常勤講師。