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瀬戸内寂聴さん(中央)と写真に納まる吉村薫さん(左)、母の千万子さん=吉村さん提供
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吉村薫さんに聞く①

 2021年11月に99歳で亡くなった瀬戸内寂聴さんは、京都・祇園のお茶屋「みの家(や)」によく通った。女将(おかみ)だった吉村千万子(ちまこ)さんは、岩手・中尊寺で得度したときに付き添ってもらったほどの仲で、小説「京まんだら」(1972年)のモデルにもなった。吉村さんの娘で、みの家の女将の薫さん(74)に思い出を聞いた。

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 ――寂聴さんがみの家に通うようになったきっかけは何ですか。

 寂聴先生が出家する前の晴美さんのころの話です。先生は京都・嵯峨野の祇王寺(ぎおうじ)の尼僧で、小説「女徳」(63年)のモデルになった高岡智照(ちしょう)尼さんと懇意でした。その智照尼さんが、「会ってほしい作家がいるんです」と中島六兵衛さんという方に先生を紹介したことが始まりです。

 ――中島さんは1899年、京都・木屋町の薪炭商の8代目として生まれ、金貸しをして財をなしました。

 九条山(京都市山科区)にあった豪邸で宴会が開かれることも多く、母も芸妓(げいこ)さんや舞妓(まいこ)さんと一緒によく呼ばれていたといいます。あるとき、「智照尼さんがおもしろい作家を連れてくるからお前も来い」と誘われて宴会に行くと、先生がいらっしゃったそうです。その席で先生が「みの家に行ってみたい」と言われ、それから来てくださるようになりました。

 母は1919(大正8)年の生まれで、先生より三つ上です。母の部屋に先生の本があり、私も読みましたが、少し色っぽいところが多くて。私は水商売の娘のわりに、うぶやったんかな。ちょっと苦手やなあと思うところもありました。

地味な着物にダメだし

 ――寂聴さんに初めて会ったのはいつですか。

 中学3年か高校1年のころです。母に言われて着物を着ていったのですが、先生が私を見るなり、「そんな着物は地味、だめ」と怒るんです。それから着物をくださるようになりました。年代的に合わず、「娘にやらんと私にください」と母がもらっていましたが。

 ――母の千万子さんは祇園の生まれですか。

 母は山口県の萩の生まれです。複雑な家庭環境で、祖母を早くに亡くし、旧満州に渡っていた祖父は本土に戻る船のなかで亡くなりました。母は、腹違いの姉のいる大阪府枚方(ひらかた)市で過ごし、知り合いの紹介で祇園に来ました。

 当時のみの家の女将と養子縁組を結ぶはずでしたが、女将は養子縁組をする前に亡くなってしまったため、祇園の大きなお茶屋「吉松(よしまつ)」に仲居として奉公に出ました。

 ――いつのころですか。

吉村薫さんの母・千万子さんも寂聴さんと同じく激しい恋に走りました。記事の後半で明かされます。

 戦前です。吉松の女将が母の…

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