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木庭顕さん

 こば・あきら 1951年生まれ。東京大名誉教授。著書に「ポスト戦後日本の知的状況」「政治の成立」「デモクラシーの古典的基礎」「法存立の歴史的基盤」の三部作など。

【1】

 前稿(「残骸の諸層位」世界2023年10月号)において私は、政治の概念を一旦(いったん)狭く取った(古典的なそれに限定した、つまり批判的な議論を戦わせた上で決定したことを透明な過程において実行するという政治本来の姿に絞った)上で、戦後期の日本においても不完全ながらその政治が仮普請されたこと、しかし(これを本当のものにするための努力も虚(むな)しく)1970年代以降その仮普請を崩す体系的営為が積み重ねられた挙句(あげく)、2013年体制、つまり自民党の政権復帰後に確立された政治経済体制、においてそうした政治の可能性が一旦断たれたこと、を論じた。これに対して本稿では、2020年代に入って2013年体制に変化の兆しが見えるのではないか、とりわけ今回2024年10月の総選挙の結果はそれを示すのではないか、という見解があるので、これについて簡単に触れる。さらには関連する若干の認識を示す。

 ただし、私は日本現代史を専門とせず、ただギリシャ・ローマの政治システムの成り立ちにつき研究を重ねてきたにすぎない。ギリシャ・ローマの政治システムの基盤を分析してそれらがどうして樹立されたのか、どうして崩壊していったのか、について新しい知見に至った、までである。しかし政治システムに関する近代の諸概念は多くギリシャ・ローマに負うということはよく知られる(私はこの部分の歴史、つまり人文主義の歴史、についても研究してきた)。日本の政治システムも、少なくとも戦後、ギリシャ・ローマ以来の理念(例えば戦後知識層にとっての「市民社会」)に基づき人々が多くの犠牲を払って形成してきたところの産物である。確かにこれを執拗(しつよう)に壊そうとする連中にたたられてきはした。しかしだからと言って、積み上げの努力が無駄だったとは断じえない。いずれにせよ私はこの努力を支持するから、ギリシャ・ローマの政治システムが何を基盤としたのかを知る者として、気付いたことを開陳することは責任を全うする所以(ゆえん)なのである。もっともまさにこの理由で、以下は新聞報道レヴェルのデータ、それも非常に確かなところのみ、に基づく仮説の提示にとどまる。私の日本現代史認識のもう少し詳しいヴァージョンは『ポスト戦後日本の知的状況』(講談社選書メチエ、2024年)において示した。また、幾つかの側面における私の詳しい現状認識については近刊予定の『2022 日本の状況(仮題)』(日本評論社)の参照を乞う。ここには上述の「残骸の諸層位」も収められる。

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【2】

 2013年体制の中核を成した自民党内の特異な一徒党(1970年代にスタートする自民党内一派閥としての「清和会」およびこれに付着する人々、から成る権力中枢)、そしてこの体制に外から殴り込みをかけてこの体制中枢と手打ちをし緩やかに結託する諸分子(1990年代以来浮かんでは消える、或(ある)いは離合集散を繰り返す、諸々(もろもろ)の「改革」新党および渡り歩く諸個人、多かれ少なかれ煽情(せんじょう)的スローガンを掲げる諸々の徒党)、の少なくとも中心部分が、このマシーンの駆動力を担う宗教団体との癒着に発した事件以来、かげりを見せている、ことは確かである。2024年10月の総選挙においてもこれが反映された。

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衆院選の開票中、自民党開票センターで取材に応じる石破茂首相=2024年10月27日、東京・永田町の党本部、岩下毅撮影

 しかしながら、一部の論説にもかかわらず、私は2013年体制が瓦解(がかい)したとは考えない。以下、その理由を示す。

 2013年体制は崩壊過程に入っていない、と論ずるのであるから、2013年体制とは何かについての私の考えを要約しなければならない。2013年体制は、1970年代後半にその胎動が現れ、1980年代に「土光臨調」をランドマークとして始まった、「改革」の成れの果てである。戦後日本がかろうじて立ち上げた政治システムは利益集団多元主義であったとされる。様々な利益集団間の調整が政治の主要任務になった。与党内外の諸集団間で根回しをする光景を読者は戦後政治の典型として簡単に思い浮かべることができるであろう。批判的議論によって明快な決定をするという政治の本来の姿とは違うが、しかし例えば戦時体制と比べてみれば一応の自由と多元性は保たれていたと言える。この政治体制は経済における「緩やかに調整される市場競争とりわけ投資配分」と不可分であった。ただし、実際には社会の不透明な部分を反映して、調整過程は曖昧(あいまい)であり、不透明な利害がそのまま政治世界に乱入したし、影のフィクサーが暗躍した。またとりわけ投資が政策的傾斜的になされ、経済社会も自律的でなかった。これらのことは2013年体制にとっても伏線となるので、ここに記しておかなければならない。

 しかるに、周知のとおり、1970年代にこの調整体制が行き詰まり限界に直面する。直接的には国際経済からのイムパクトが決定的であったが、前の段落の最後で示した欠陥があった以上、どのみち本格的な政治システムと市場へ移行しなければならなかったであろう。この危機をしかし、われわれは以下のようにして乗り切ることとした。調整は続けるが、全体で結束し、一部を犠牲にする、そしてまた結束体のために各集団が内部を切り捨てる犠牲を払う、というか下請け的に払わせる。元々調整の中身は曖昧を特徴とした(つまり守らなければならない明確な一線を欠いた)から、その曖昧な調整は容易に実質犠牲強要にずれ込み、一致和合の切り捨て体制が出来上がった。ナショナルなレヴェルで頂点を極めたのが「臨調」発の国鉄解体であった。一致和合の切り捨てという処方箋(せん)は、石油ショックつまり古い資源産業基盤の破綻(はたん)の中、先進国の中で唯一の大成功を日本にもたらした。1980年代にわれわれが酔いしれたことは記憶に新しいし、新しい世代もこれについてさんざ聞かされたことであろう。

 しかし実際にはこれは大失敗であった。犠牲強要・切り捨ては投機を意味する。破壊分子が先に行き、次に開発業者が乗り込み、売り逃げる。ここへ資金が吸い寄せられる。1980年代以降、この地上げ・開発・投機資金流入が日本経済の基本パターンになってしまった。ここには一発当てるか当てないかという質の悪い信用しかない。そういう投機的信用は必ず信用破綻に終わる。1990年代初めに劇的な崩落が始まり、1990年代末には悲惨な大整理が行われた。しかし1990年代以後も、「規制緩和」を旗印とする、破壊・開発・投機資金流入という上の基幹メカニズムのミニ版を続ける以外になかった。破綻処理のためにはイカサマでよいから信用サイクルを動かさなければならない。焦げ付いた債権を誰かがジャンクで買うという投機がなければならない。詐欺を続けなければ倒れるという金融マルチと同じである。別の投機機会を創出してそこへ飛ばす以外にないのである。「規制緩和」は、ニッチにミニ版の飛ばし先つまり破壊・開発・投機資金流入メカニズムを創出するためになされた。既存のフィールドではそうした機会は尽きていた。信用できないのである。そこで政治システムを動かし、新しい既得権(新利権、新レント)を発生させなければならなかった(読者は人材派遣業などを直ちに思い浮かべることであろう)。1980年代に既に政治世界の利益調整=和合引き締め体制は成立していた。しかし1990年代には外から多数の分子がまさにこのミニ版を担いでそこへ食い込もうとした。「改革」新党の族生と離合集散の激しさはそのコロラリー(必然的帰結)であった(それらは「規制緩和」をゲットしようとした)。並行して、財政が後始末のために動員され、後始末のために金融政策が手を縛られる(財政赤字と低金利)。以上二つのことのために「政治改革」が必要とされた。本来1970年代前半の(宗教団体の介在を経た、そして2013年体制中核徒党へと継承されていく)和合引き締め路線登場とともに現れていてよかった動機であるが、和合引き締め自体が利益調整を不可欠の前提とした関係から、和合引き締め一元化の契機が現れる破綻整理期になってようやく前面に躍り出たのである。「政治改革」は「改革」の中でも後始末のフェーズを代表している。

 2000年代半ば以降はしか…

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