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笑顔も印象的だった瀬戸内寂聴さん=2016年4月、京都市右京区、伊藤菜々子撮影
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林真理子さんに聞く(4)

 「愛した 書いた 祈った 寂聴」。岩手県二戸市の天台寺の墓に刻まれている言葉だ。寂聴さん自らが99年の生涯を端的に表した。その長く激しい人生で伝えたかったことは何か。「ありのままで生きていていいんだよ」。林真理子さん(70)は、そう教えられたという。

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 ――1973年、51歳での出家が、その後の小説にどう影響しましたか。

 ものすごく難しい問題ですね。一遍や西行、釈迦をテーマにした小説を書くようになりましたし、源氏物語の現代語訳を完成させました。そのときの先生にとって最大のテーマは、源氏の君は、出家した女性には手を出さないということでした。

 京都・嵯峨野の寂庵(じゃくあん)で法話をし、いろんな人の話を聞いたことも大きかったと思います。悩みを抱える人たちのよりどころになり、書く力がわいてきたはずです。

 女性誌でも人生相談を続けましたよね。私も読んでいましたが、おばさまたちのおもしろくも何ともない質問に、よく答えているなあ、先生はすばらしいなあと思っていました。私にはできません。

 そのことを先生に言ったら「僧侶の役目だから仕方がないわよ」と笑っていました。

すべてを許し、受け入れた寂聴さん

 ――晩年は病を繰り返しました。「老い」をどうみていましたか。

 成熟の完成形です。年を重ね、見るべきものはすべて見た。あらゆることを受け入れた。そういう精神や人間性が、よい方向に成熟していきました。

 ――「生きることは愛すること。愛することは許すこと」とおっしゃっていましたが、すべてを許す境地に達したのはなぜですか。

 作家は、人の人生をえぐり出します。いくら承諾を得て取材したとしても、えぐいことをしているんです。死んだ人といえども、その人を傷つけます。墓から掘り出し、解剖するようなものです。

 先生も、いろんな人を書いてきました。しかも取材力はねちっこく、筆力は精緻(せいち)で、その人の人生を残酷なまでにえぐり出しています。書かれた人たちのすべてが喜んでいるわけではなく、先生のことを恨んでいる人もいたはずです。

 だれだって死ぬとき、人に恨まれ、憎まれたくない。逆に、人を恨み、憎み、死んでいきたくない。だから、先生はすべてを許し、受け入れられたのだと思います。

林さんが書くはずだった寂聴さんの伝記

 ――最後にお目にかかったのはいつですか。

 亡くなる5カ月前の2021年6月です。女性誌の企画で、寂庵で対談しました。「真理子さんに私のことを書いてもらいたい」とお願いされました。

 「先生は自分のことを全部書いていらっしゃるから、私が書く必要ないんじゃないですか」と聞くと、「まだ話していないことが、いっぱいあるのよ」とおっしゃいました。

 その場で、先生の伝記を連載することが決まりました。「早く取材させてくださいね」と言っていたのですが、お加減が悪くなられ、実現しませんでした。ちゃんと聞いておけばよかったと残念でなりません。

 先生は、ほかの人の評伝をあれだけ書かれてきたので、自分が亡くなったあとの評伝が気になっていたはずです。だから、長い付き合いの私に、書いてほしいとおっしゃったと思います。おそらく、私と同じ世代で先生の伝記を書こうと思う作家はいませんよね。

 ――印象に残っている寂聴さんの言葉は何ですか。

寂聴さんが戦後の日本に及ぼした影響は何か。記事の後半で林さんが語ります。

 「作家は死ねば1年で消えて…

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