石神遺跡東側で確認された大規模区画の掘っ立て柱塀跡=奈良県明日香村、塚本和人撮影

 飛鳥時代の迎賓館跡とされる奈良県明日香村の石神遺跡で、7世紀後半につくられたとみられる塀跡がみつかった。奈良文化財研究所(奈文研)が6日発表した。

 律令国家成立を目指した天武天皇(在位673~686年)から、次の持統天皇(同690~697年)の時期とみられ、専門家は、宮殿があった飛鳥浄御原宮(きよみはらのみや)の北側に中央官庁や宮殿関連施設が広がっていた可能性を指摘する。

 石神遺跡は、7世紀半ばの斉明天皇(同655~661年)の時代には大規模建物群や石敷き広場がつくられ、外国使節の接待や服属儀礼などが行われた迎賓館的な施設だったとされる。660年に皇太子の中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)(のちの天智天皇)がつくった漏刻(ろうこく)(水時計)跡とされる水落遺跡の北側に接し、国内最古の本格的伽藍(がらん)をもった飛鳥寺の北西に広がっていた。

 奈文研は1981年から継続的に発掘調査を実施。昨年12月から遺跡東側の297平方メートルを発掘。方形の柱穴(一辺0・9~1・2メートル)が計13基出土し、うち10基が東西に並び、その東端で北に折れ、さらに南北方向に3基並んでいた。

 柱穴の中に直径15~20センチの柱の痕跡が残っており、ここに区画の東南隅にあたる掘っ立て柱塀がつくられたとみられる。84年の調査で確認された西端の遺構などと合わせると、東西約133メートル、南北95メートル以上の大規模な区画が整備されていたことが明らかになった。

 猪熊兼勝・京都橘大名誉教授(考古学)は「天武朝の石神遺跡は迎賓館の役割を終え、飛鳥浄御原宮の『北館』のような宮殿関連施設や役所があったのでは」とみる。

 現地見学会は8日午前11時~午後3時。小雨決行。駐車場はない。問い合わせは奈文研都城発掘調査部(0744・24・1122)へ。

みえてきた飛鳥の中枢の姿

 これまでの発掘調査の成果から、飛鳥の宮殿は、狭い盆地内に天皇の住まいと天皇が政治を執る殿舎を中心に建物がひしめきあっていたとみられる。

 今回出土した遺構が造営され…

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