
カンサイのカイシャ ここがオモロイ!
大阪・生野は靴の町、だと知っていますか? 戦後、狭い路地に小さな工場がひしめき、サンダルなどの履物を大量生産しました。職人の高齢化は進みましたが、靴作りのネットワークは今なお生きています。「町全体が工場」だという生野の現場へ分け入りました。
案内人は生野有数の靴メーカー・リゲッタの古川秀幸さん(48)。生産管理部のリーダーだ。細かく分かれた製造工程を、地元の約150業者に発注している。60~70代を中心に、約400人の職人が関わっているという。
「多くの人に頼るがゆえの面白さも、難しさもある」と古川さん。職人がひとり風邪で寝込んでも、工程に影響が出る。
初めに訪ねたのは、改装した民家で裁断業を営む秀山和生さん(78)。12畳ほどの作業場で、40年使い込んだ裁断機のペダルを踏む。ガッシャン。型が生地をくりぬき靴の裏地が数枚。1日約300足分を作る。
裁断された部材は縫製や熱加工を経て、靴の甲部分になる。それを底に圧着するのが「貼り場」だ。リゲッタが最も多くの仕事を頼む貼り場、シューズ・スコッチを訪れた。5月は夏物サンダルの繁忙期。職人らが底の貼りつけ作業を、黙々と続けていた。
「リゲッタの社長さんが、色んなデザインを考え出すから、どう対応できるかいつも悩みます」。楠本篤志工場長(49)が手を止めずに笑う。
古川さんは「逆に改良点を提案してもらうこともあるんです」という。
リゲッタの社長、高本泰朗(やすお)さん(48)は名刺に「靴職人」と名乗る通り、自らデザインを手がける。1968年、下請けの裁断職人だった父が独立し、自宅で創業。高本さんは靴の産地、神戸・長田で3年修業し、98年に入社した。
当時、ほぼ全ての仕事を広島の靴会社から受注していた。2000年末、広島に呼び出され、対面した社長に告げられたのは、「今後は中国製に切り替えます」。業界ではコストの低い海外での製造が進んでいた。売り上げは、ゼロになった。
相次ぐコピー商品 危機が転機に
それからひたすら新デザイン…