平成から令和にかけて、世界の紛争地を取材してきた喜田尚記者が、自らの来し方を振り返り、未来に向けてつづる「記者たちのヒストリー」の後編です。冷戦終結後、ほの見えた平和への希望もつかの間、世紀をまたいで、世界はますます複雑さを増し、戦火は絶えることがありません。希望はついえてしまったのでしょうか。歴史を俯瞰(ふかん)して考えます。
- 【前編はこちら】紛争の現場で出会った「忘れられた人々」 冷戦終結後の世界のリアル
これまでの人生の半分近くを冷戦下で過ごした私にとって、1980年代末から90年代にかけては、動くはずがないと思いこんでいた山が動きはじめた時代だった。89年には崩れるはずのなかったベルリンの壁が崩れ、湾岸戦争から2年後の93年にはパレスチナの暫定自治を認める「オスロ合意」が結ばれた。
たとえ時間がかかり、国際政治の駆け引きの中で曲折を経たとしても、これからは世界のさまざまな問題が解決に向かって動いていくのだろう――当時はそんな思い込みもあった。
だが、振り返れば、曲がりなりにもそう思い込むことができたのは2000年代はじめまでだった。その後、世界は混迷に陥り、10年代以降は、冷戦終結後の自分の楽観的なものの見方を疑問視せざるを得なくなった。
異臭が立ちこめる野営地で
連載の前編で書いたアフガニスタン空爆から7年後の08年11月、私はギリシャ西部の港湾都市パトラを訪れた。そこで、アドリア海をはさんでイタリア半島に続く港近くにある「アフガン難民キャンプ」の光景を目にして、思わず息をのんだ。
雑草が茂る空き地に、板で組み立てた掘っ立て小屋や、木の棒に布ぎれを渡しただけのテントが並んでいた。狭い場所におびただしい数の人がひしめき、腐った食べ物や排泄(はいせつ)物の異臭が立ちこめていた。
約1500人といわれた「居住者」の大半が、アフガニスタンのモンゴル系少数民族ハザラの若者たちだった。彼らはトルコからエーゲ海を密航してギリシャに入り、さらにドイツやスウェーデンなど西欧の国を目指していた。
「キャンプ」といっても、その実態は、一時的な居場所を求めた彼らが口コミで集まった野営地だ。皆がアドリア海を渡る貨物船に忍び込むチャンスをうかがっていた。
30歳前後とみられる男性は、2度デンマークなどに渡ったが、不法入国が発覚してそのつどギリシャまで戻された、と語った。数年前にギリシャ当局から受け取ったという難民申請の受領書を私に見せ、「ここではいつまで待っても審査してくれない。何度拒まれても、西欧に行く」とも言った。
私は、彼らのうち数人が、フェリーに乗船前の大型貨物トラックの下に潜り込み、エンジンルームにしがみつくのも見た。
2001年末のタリバンのカブール撤退で、「大団円」が訪れたと思ったアフガニスタンの状況は、悪化の一途をたどっていた。米国は同盟国の反対を押し切って「テロとの戦い」をイラクに拡大し、同国で宗派間対立を引き起こした。アフガニスタンでもタリバンが息を吹き返し、テロ活動を激化。経済は立ち直らず、シーア派のイスラム教徒が多いハザラ人は、スンニ派のタリバンの攻撃の標的になっていた。
「冷戦の勝者」を自任する米国が主導してきた冷戦後の世界は、明らかにきしみだしていた。
徒歩で国境を越えていく難民たち
私がギリシャの難民キャンプを訪れた08年の8月、ロシアが旧ソ連ジョージアの国内紛争に軍事介入した。当時ローマ支局長だった私はジョージアに釘付けになった。翌09年にローマを離れ、3年後の12年にウィーン支局に赴任すると、今度は中東から「アラブの春」後の内戦や混乱を逃れた難民らが、大量に欧州をめざし始めた。
欧州へやってくる難民らの取材と、旧ソ連周辺の取材――。この時期の私は、この二つのテーマを、同時並行的に追い続けた。
14年3月、ロシアがウクライナ南部のクリミア半島を一方的に併合した。東部でも、ロシアの支援を受けた親ロシア派武装組織がウクライナ軍と衝突。私は半年以上、首都キーウと東部の間を行き来した。春から夏へ、戦闘は激化し、防弾チョッキとヘルメットが手放せなくなった。
翌15年2月にウクライナ東部の戦闘で停戦合意が成立すると、その直後から中東、アジア、アフリカから欧州入りする移民や難民の数が指数関数的な勢いで増え始めた。トルコからギリシャに上陸した彼らは、今度はアドリア海を渡るのではなく、大挙して陸路でバルカン半島を北上した。いわゆる「欧州難民危機」の始まりだ。
欧州では珍しい暑い夏だった…