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都庁で開かれた平和の日記念式典で、空襲被災者の代表としてあいさつする丹後省三さん=2025年3月10日午後2時29分、都庁、松田果穂撮影
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 東京大空襲から80年となった10日、都内各地で法要や追悼式が開かれた。都庁では、都が主催する「平和の日記念式典」があり、被災者や遺族ら約370人が参列。1分間の黙禱(もくとう)を捧げ、戦時中の空襲で犠牲になった人たちを悼んだ。

 被災者代表として、丹後省三さん(84)があいさつに立った。世田谷区の自宅は東京大空襲の被害は免れたものの、1945年5月25日の空襲で全焼したという。

 その日の夜、空襲警報のサイレンが鳴り響くなか、両親に連れ出されて空を見上げ、驚いた。空を埋め尽くすように飛ぶ米軍のB29爆撃機から、星のように光る焼夷(しょうい)弾がヒュルヒュルと音を立てて落ちてきた。近所の家の壁が燃えだしたかと思うと、あっという間に町中が火の海になった。

 当時15歳の姉と2人で防火用水で水をくみ、体をぬらしながら逃げたという。「火の粉が大量に降りかかってきて、黙っていれば体ごと燃えてしまう。途中で何回も身体中に水をかぶって逃げた」

 近所の小川に逃げ込み、水につかりながら夜が明けるのを待った。一睡もできずへとへとに疲れて迎えた朝、自宅に戻ると、家は完全に焼け落ちて灰になっていた。別の場所に避難していた両親から、火の勢いが強すぎて消火を断念したと聞かされた。

 家を失い、その後は家族で神奈川県内に移り住んだものの、そこでも小型戦闘機による機銃掃射に、たびたび襲われ、恐ろしい思いをした。終戦を迎えた日、父から「あの飛行機はもう飛んでこなくなったよ。大丈夫だよ」と言われ、ほっとしたことを覚えているという。

 丹後さんは式典のあいさつで「これから先の時代を担う方々には、二度と戦争の経験をさせてはならない。現在私たちが享受している平和と繁栄の社会を、次の世代に確実に引き継いでいくことが、今を生きる私たちの大切な役割だ」と語った。

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